温泉めぐりと神話への旅 
by sinanoo
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浦河の神社 (21) 絵笛神社
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道々静内浦河線を静内方向にすすみ、絵笛川を渡り新築された絵笛生活改善センターの右手の小高い丘の中腹に鎮座しています。
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          絵笛神社 (えぶえじんじゃ)
       創  祀   明治21年(1888)2月
       祭  神   北極星と北斗七星からなる妙見神
       御神体    鏡

       所在地   浦河町絵笛555番地
       社殿面積  12坪
       境内面積  300坪
       神殿様式  神明造
 
       例  祭     9月19~20日          
        由緒
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明治21年(1888)2月但馬国(兵庫県豊岡市)より開拓のため和船に乗って62日間の航海を経て浦河港に到着し、最初に移住した江谷菊三郎、大下善太郎、谷垣善左衛門、本間与五郎、杉山常三郎の5人が「心のよりどころとしての神社創立の必要性を論じて、江谷菊三郎が移住にあたり養父郡と美方郡香美町の境にある但馬妙見山の中腹にたつ妙見宮(現日光院)より3基の鏡を拝受したこともあり、あわせ合わせ南「但馬」
から北「北海道」に移住したので北極星を祭神として奉ることにして、明治21年(1888)2月江谷菊三郎所有の裏山に祠を建立して氏神として奉齋しました。

明治29年(1896)開拓が進むにつれ移住者が37戸を数え、祠の位置が部落の上に偏っている、との意見が出たために集落の中央の丘陵地に2kほど移動してあらたに神社を建立し、絵笛神社と称しました。

拝受した3基の鏡のうち2基が紛失し、現在は1基が奉られています。

昭和56年(1981)絵笛開基100年迎えるに当たり、老巧化した神社の新築が部落の総意て決まり、翌57年(1982)10月神社の位置を約50㍍下げた現在地に社殿、集会所を建立しました。
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昭和7年(1932)1の鳥居建立 (斉藤菊治氏奉納)
昭和15年(1940)2の鳥居建立 (松田長作氏奉納)
 (写真は2の鳥居)

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奉納された額

昭和40年後半頃絵笛神社の維持管理、運営などで諸問題が山積されて浦河神社への合祀が提案され、部落全員の合意を取り付けましたが、絵笛小学校の堺町小学校への併合が決まり、一部住民から「学校、神社がなくなったら住民が集い、親睦を深める場所がなくなり、心のきずなが失われてゆく」との強硬な意見がだされて神社の存続が決まりました。

明治21年(1888)頃熊による被害が多発し、これを防ぐために絵笛からライベツ越えの絵笛側中腹に「熊の山神社」を建立しましたが、開拓が進むと共に熊による被害が減少し廃社になりました。
この熊の山神社についての詳細はわかりませんが、神社の彫刻を施した鴨居が保存されている、といいます。(森脇和夫氏談)

  例祭
創祀当時は神としての北極星を10とし、北斗七星の7を加え毎月17日を17夜待講として住民が集い故郷をしのび、意思の疎通を図ったと言われ9月17日を宵宮、20日を本祭りとしていましたが、現在では9月19日を宵宮、彼岸の入りの20日を本祭りとしています。e0104596_2242147.jpg

宵宮は生活改善センターの前庭で行なわれ、子供相撲が奉納され住民は焼肉を食べながら賑やかに団欒のひと時を過します。
子供みこしが場内をまわって喝采をあびていました。

その後住民は1キロほど離れた神社に詣で祭りを司る自治会の人達が神社に朝までつめて、住民とともに神を奉齋します。

また大晦日から新年にかけても神社につめて参拝者をまちます。

 ふるさと但馬(豊岡市)との交流
豊岡市史「北海道開拓移住」の項には「明治20年頃但馬人らが大和船に便乗し60日の航海を続け上陸、直ちに絵笛に入地、詳細不明」と記されその歴史的事実は抜け落ちたままです。

望郷の念100年。昭和53年(1978)絵笛より川越清夫さんがはじめて豊岡市の本家、川越匠さんを訪れ、絵笛移住の関係者の本家探しが始まりました。
川越匠さんは縁故者名簿の整理に東奔西走されてその多くが判明しました。

平成元年(1989)「絵笛但馬会」が結成され同年10月川越清夫さんをはじめ一行9人が但馬を訪れそれぞれの本家を訪問し「先祖の地 但馬へ」2代3代4代と引き継がれた望郷の念が実現しました。

平成5年(1993)7月「但馬 絵笛会(川越匠会長)」一行13人が100年前但馬人が入植した絵笛の大地を答礼訪問ししました。
広報「とよおか」には「初めて目にした絵笛は艱難辛苦、但馬の先人が開拓し引き継いできた広大な大地と駿馬サラブレッドの駆ける牧場を営む堂々たる人達の風景でした」と記されています。
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 交流を伝える広報「とよおか」
  平成5年9月号
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 明るい地域社会づくりに貢献したとして
 兵庫県知事より「のじぎく賞」が贈られました。
  北海タイムスより転載

 但馬学研究会
2008年1月に開かれた但馬学研究会(豊岡市にある但馬を見つめなおし但馬に住む人達に生きがいと豊かさをもたらす学究活動をする会)で「北海道絵笛を拓いた但馬人」をテーマに例会が開かれました。

そのなかから興味深い話を抜粋しました。

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絵笛但馬会の本家訪問に同道した市職員中奥薫氏の講演

それまではせいぜい手紙の交換かまったく音信不通の関係だったが本家訪問が叶い、北海道移住のいわくが刻まれた墓石にむかって慟哭されるシーンに感動した。

本家が逼塞していないか、突然の訪問で迷惑がかからないかなど不安な気持ちで来られただろうが、おおくの皆さんは感動的な対面をした。

山本晃司氏 「移住者の但馬の縁故者の思い」

平成3年川越匠さんが来宅「絵笛に親戚があるか、向こうから9人分の縁故者名簿の調べの依頼があった」とのこと。そこで調査が始まったが断りもあった。
その結果今まで年賀はがきの交流が。初めてあさぎり荘で対面できた。

対面の過程では親や先祖からなにも聞いていない。こちらの縁故者では感動が薄く儀礼的な対面のケースもあった。

私(山本)の縁故者斉藤英さんが亡くなりいまは4代目になっている。駿馬の飼育に忙しくなり4代目とは全く交流がない。

昔の話を聞いたか聞かないかで語り継ぎができるか途絶えるかになる、関心があるかないかでも違う。今自分の子供に話すと「ああそう」ぐらいにそっけない。

絵笛を訪問した時印象に残ったことは豊岡では「江谷 えたに」なのに絵笛では「江谷 ごうや」と呼び方が違っていたことの理由は豊岡を不本意な形で出てきたような状態なので、豊岡に迷惑にならないように無関係を装うために違う名乗りをしているとのこと、移住のさまざまな背景がみえるようだ。

120年間世代交代が続き開拓移民史も風化してきている。今後絵笛を訪問する機会があっても迷惑になるだろうから多分行けないだろう。

名前の呼び方を変えていることについては、祭りの夜土肥(どひ)俊彦さんからこんなお話をお聞きしました。

土肥(どひ)さんの先祖は明治24年但馬から移住しましたが先祖をたぐると、伊豆から戦国時代に落ち武者として但馬の山奥に逃げ込んだといい、伊豆では「土肥 どい」と名乗っていましたが但馬では「土肥 どひ」と名乗りこれも伊豆の縁故者に迷惑がかかることを恐れてのことだろう。とのことで「江谷 ごうや」に通ずるものでしょう。

         参考引用文献  繒笛開村50年誌 絵笛開基百年記念誌 新浦河町史
         川越清夫氏  土肥俊彦氏  森垣和夫氏 からの聞き取り
         
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by sinanoo | 2010-02-15 23:40 | 浦河の神社
公有地の神社違憲判決に思う
先月最高裁で公有地を無償で使わせるのは政教分離を定めた憲法に反する、との判断が示され自治体にとまどいが広がっています。

政教分離の原則は戦前、国家神道を精神的な支柱として戦争への道を突き進み、神社参拝が強要され、信教の自由もうばわれました。
そんなにがい苦しみの体験のもとに政教分離の原則が憲法20条、89条にもりこまれました。

今回の判決は砂川市の空知太神社が市有地を無償で使っている問題で2審の札幌高裁では、違憲とし「違憲状態を解消するには「鳥居や祠などの撤去」が必要としたのに対し「撤去は地域住民の宗教活動を困難にして土地の取得や有償での提供もありうる」として現実的に取り組むよう札幌高裁に差し戻しました。

浦河町も含め北海道では開拓期に各地から入植した人々がふるさとからから分霊を受け、あるいは神札受けて心のよりどころとして建立した神社が多く今回の判決は「道内のそういった歴史」を理解していないのではないか、とおもいます。

戦前国家権力が推し進めた国家神道は、古来からの神道とは別のものであったということを認識しなければならないと思います。

ましてや最近の日本人の宗教観は結婚式はキリスト教、葬式は仏教、正月には神社参りと無節操と思うくらい多様化しています。
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浦河町では5つの神社が町有地に建っています。
私はこの数年、浦河に建つ23の神社を訪ね歩いて神社の開祀、開拓期からの変遷、祭りの実状などを調べてきました。
浦河の神社の多くは年1回または2回の例祭の日に旧郷社「浦河神社」から神官を招き大祓詞(おおはらえのことば)を奏上しますが、神社や生活館などに住民が集まり食べたり飲んだりして祭りを楽しむコミニュケーションの場となっており、宗教性はきわめて希薄です。
神社の運営や祭事は浦河神社は別として特定の氏子集団ではなく自治会が主体になって行なわれております。

浦河町の行政も対応に苦慮することでしょうが、差し戻し審の判断をふまえて地域の伝統的な習慣を憲法の大原則とどのように調和させるか、いまでも神社の保守管理にかかる多大な費用の捻出に苦慮している地域住民に、これ以上の経済的負担をかけないようにしてもらいたいものです。

今回の判決は日ごろ暮らしの中で不思議とは思わないことにも「憲法が定める大事な原則が宿らねばいけない」そんなことを教えられた判決でした。
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by sinanoo | 2010-02-13 17:38 | 浦河の神社
春のいぶき 福寿草が咲いた
もうすぐ春です。みんな春を待ってます、喋喋も小鳥もそしてわたしも。

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近年にない大雪に見舞われた浦河、やっと溶けはじめたJR日高線の土手に枯草にうもれて福寿草が花をつけていました。
春1番に咲く花、目にしみるような可憐な黄花です。

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望洋公園を1面に覆う枯草のあちこちに春1番の山菜、ふきのとうが芽を出しています。
冬眠からめざめた熊が最初に食べるというふきのとう、油で炒めて食べると口一杯にほろ苦い春の香りが広がります。
私の大好物です。

ネコヤナギが冬芽をだし、ふきのとうが芽をだし、福寿草が咲いて。
もう春はそこまで来ています。
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by sinanoo | 2010-02-12 23:50 | つれづれ
 アイヌの神々 遠山サキさん
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姉茶に住むアイヌのフチ遠山サキさんを訪ねてきました。

サキさんは野深で生まれ、姉茶に嫁ぎ子供の頃から激しい差別のなかで育ちながら、アイヌ伝統文化の伝承に力を尽くして、現在でも全国に出向いてアイヌ文化を紹介し、多くの功績を残しているアイヌ文化伝承の第一人者です。

訪ねたのはブログ「浦河の神社」で取り上げた姉茶神社に鎮座するアイヌの神を祀る祠「もう一つの姉茶神社」のお話を聞くことと、野深白龍神社で行なはれていたという「イオマンテ」の儀式のお話を聞き、アイヌの信仰をすこしでも理解できればと思ったからです。

アイヌの人々が祀るもう一つの姉茶神社
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この祠の創祀ははっきりしませんが、姉茶神社の現在地への移転が明治44年(1911)年ですからそれ以降とみられます。
この祠は東栄に住んでいた占い師友田某が祠を建て明星大善神(星の神)を祀ったのが始まりとされ、以後水の神竜神(ワッカウシカムイ)馬頭観音が祀られています。

アイヌの人々の信仰は縄文時代から日本古来の神、自然崇拝、精霊崇拝つまりすべてのものに霊魂や霊がやどっているという「アミニズム」です。

遠山サキさんは以前は多くのコタンの人々が先祖を守ってくれた神を敬い、参拝していたのにいまは参拝していた人々が高齢で多く死んでしまい神社の手入れもおろそかになり、コタンもなくなってしまったので参拝者も少なくなってしまったと嘆いていました。

春、秋の礼祭は神に奉げるイナウ造りから維持、管理までいまでは遠山サキさんと家族だけでおこなっているそうです。

自治会から寄付の申し出がありましたが「アイヌの神々を祀る神社だから、アイヌが守る」というアイヌの誇りから断ったそうです。

サキさんはいま子供達は「うるさい年寄りがいるからといって手伝ってくれるが、私が死んだら神社の面倒をみてくれるだろうか」と笑いながら話していましたが、サキさんの思いは子供さん達に伝わり、アイヌの守り神として敬まわれてゆくことでしょう。

野深 白龍神社のイオマンテ
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白龍神社は現在地に移る前は現共栄産業の裏手の大きな木の下にあり、祭りには野深、姉茶はもとより浜からも多くのアイヌの人々が集まり、にぎやかな祭りだったそうです。

アイヌの伝統儀式熊送り「イオマンテ」はサキさんが12・3才頃(60数年前)まで行なわれていたようです。

冬ごもりしている間に生まれた小熊を探して親熊は殺しますが、小熊は家に連れ帰って子供と同じように育てて時には母乳も与えるそうです。
サキさんは「小熊が木に登ったり、じゃれついたり、人のあとをついて歩いたりしてそれは可愛いものでしたよ」

1~2年育てたあとイオマンテの儀式で祭りの輪のなかで矢を放ち、2本の丸太ね首を挟み息の根を止め、人々はカムイへの感謝の歌や踊りを踊り、祭りのためにアイヌの家々を回って集めた米で作ったシト(団子)トノト(濁り酒)ヤナギの木を削いで作ったイナウを大量に奉げユーカラを語ります。

サキさんは「家族同様に育てた小熊が殺されるの見る事は忍びなく、涙が出て顔をそむけたものです」と語っていました。e0104596_0482243.jpg

60数年まえに行なわれた「イオマンテ」
2頭の小熊も写っています
        遠山サキさん所蔵


殺された熊は皮をはぎ肉をとり熊の形を整えるそうでサキさんは「狩猟民族だから出きるんですよ」といっていました。

解体した肉は大きな鍋に入れて団子と共に煮込んで人々にふるまわれ、アイヌの人々はもとよりシャモ(和人)の人達も集まって来たとサキさんは語っていました。

イオマンテの儀式は3日間にわたって行なわれ「残酷だから」と道の条例でしばらくの間禁止されていましたが2007年に撤回され再び行なわれるようになりましたが、1日と短縮され、本来の祭りの姿は失われているようです。

イオマンテを信仰面からみると熊の姿を借りて人間の世界にやって来たカムイを1~2年間大切にもてなして見送りの宴を行って、神々の世界にお帰りいただくものと考えられます。

熊の肉や毛皮はもてなしのお礼としてカムイが置いていった置き土産であり、みなでありがたく頂くというわけで、人間の世界で大事にされた熊のカムイは天界に帰った後も再び肉と毛皮を携えて人間の世界を訪れるといいます。

                     遠山サキさんからの聞き取り 
参考引用文献   Wikipedia
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by sinanoo | 2010-02-10 23:42 | 浦河の神社
立春 浦河
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立春 浦河の日の出
-10.7℃寒風のなか太陽の光が凍っているようにも見えました。


季節の分け目の節分が昨日、今日2月4日は冬至と春分の中間に当たる24節気のひとつ立春です。

唱歌早春賦「春は名のみの風の寒さや・・・・・」立春といえども名ばかりの節目です。
寒気が流れ込み日本中が冷え込みました。
アメダスをみると浦河市街では午前7時-11.9℃浦河で一番寒い中杵臼で-26.6℃まで下がり今年一番の冷え込みでした。

暦の上では大寒から立春までが一番寒い季節で、立春は寒さの頂点でこれから寒さもすこしづつ緩みはじめて春の気配が忍び寄ってきます。
これからの冷え込みを「余寒」といい寒さの余りと呼ぶのは、春を待ちわびる気持ちからでしょうか。

浦河港に行って見ました。10年前今年と同じような寒波で港が全面結氷し、漁船が氷に閉じ込められて砕氷船が出動する事態になりました。
今年はこの寒波にもかかわらず例年と同じ、岸壁付近に蓮状の氷が浮いている程度でした。

海水温が高いのでしょうか。

防波堤に上がりはるか水平線を望むと、かすかに春の色が見えました。
手招きして「早く来いよ」と叫んでしまいましたが、余りの寒さに幻影をみたのでしょうか。

氷がとけたら何になる? テストである子が「水になる」ではなく「春になる」と答えたという話は、ほほえましく話題になりました。
先生は正解にするか迷ったそうですが、私なら三重マル、いや五重マルですね。

「春よ来い 早く来い」
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by sinanoo | 2010-02-04 17:30 | うらかわ いろいろ
浦河神社 節分
2月3日は節分。季節を分けるという意味で各季節の始まりの日「立春、立夏、立秋、立冬」の前日を節分といい、立春の前日を江戸時代から節分というようになったと云われています。

節分の豆撒きは中国から伝わったものと言われ、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、豆をぶつけることで邪気を追い払い1年の無病息災を願うものです。

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浦河神社の節分豆撒きは午後4時から拝殿で行われ、おやごさんにつれられた子供たち50人が集まって神官からお払いを受けた後、神前に供えられていた大豆、菓子、みかんなどが神主、禰宜の「福は内、鬼は外」の掛け声で撒かれました。
子供たちは親の見守るなか嬉々として拾い集めていました。

浦河神社で撒かれた豆は外では落花生が多い中で正統派の炒った大豆(昨年の邪気を祓うのですから芽が出たら困るので)でした。

撒かれた豆を歳の数より1つ多く食べると健康に過せるといわれていますが、私など70近く食べるのは至難の業で大豆が原料の豆腐に変えようかと思っていますがどうでしょうかね。

浦河で参詣者を招いて節分の豆撒きを行う寺社は浦河神社、鱗別稲荷神社、円久寺、妙龍寺、です。

寺社が同じ祭事を行うことはあまり例がなく節分が江戸時代から行われていることかとから神仏習合の時代からの流れかもしれません。
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by sinanoo | 2010-02-03 21:19 | うらかわ いろいろ
ネコヤナギ
春を告げるネコヤナギの冬芽が出た、との情報を聞いて丘陵地にある常盤公園に行ってきました。

-8℃の寒さの中、雪に足をとられながら探し回りやっと見つけました。

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冬芽が動いて綻び、白いビロードが現れはじめています。
生花の素材に使われるのでしょうか、高鋏で多くの枝が切られていました。

白毛におおわれた花をつけるのは、暖かくなる3月のなかすぎでしょうか。
尾状の花種を猫の尻尾に見立ててネコヤナギと名付たとか。

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雪深い常磐公園、樹木はまだ冬眠中で桜の芽が冬眠打破するのはまだ先でしょう。
常磐公園から見た日高山系真っ白です。
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by sinanoo | 2010-02-02 18:39 | つれづれ