温泉めぐりと神話への旅 
by sinanoo
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09 日高山脈菜園 作男日誌 (6)
紅葉も終わり、菜園をかこむシラカバの木々も葉を落とし始め、骸骨をおもわせるようなシラカンバの木々が山肌に浮かび上がってきました。

10月中頃から飛び始めた白い綿をつけたユキムシ、今日 大量に飛んでいました、目をこらすと粉雪が舞っているようです。
短い秋も終わり雪が舞うきびしい冬がすぐそこまで来ています。

今年の菜園は終わりです。

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7月の多雨と低温の影響で収穫量が予想を大幅に下回りました。
順調な作柄とおもったジャガイモは粘土質の土地のため多雨で水はけが悪く、半分以上が腐り、今年こそはと期待していたカボチャも受粉時期の雨で雌花に雨水がたまり、受粉できずに、70本植え80個の収穫でそれも小玉で予想の3割とさんざんでした。

隣で野菜づくりを長年てがけている、おばあちゃんもジャガイモ カボチャ  大豆 小豆 トウキビなどがあまりにも不作で「嫁に来て畑をはじめて60年、こんなことはじめて」と嘆いていました。

畑に残っている野菜は例年なら収穫が終わっている大根、今年は10月はじめから最低気温が-2℃を超える日が多く成長が遅れてもうすこし様子を見ようとおもっていますが、このところの低温でこれ以上はのぞめそうにもありません。

野沢菜は霜や雪にあたると甘味がますので11月末までのこしておきます。

作男を引き受けて3年目、今年こそはと意気込んだのですが天候不順(言い訳にもなりますが)で今年も赤字でしょうね。

半年間精魂込めて耕した1反歩の畑につもる落葉をみていると「作男が夢のあと」そのんな心境になります。
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by sinanoo | 2009-10-31 20:25 | 菜園日誌
浦河の神社 (19) 上野深神社
道々348号線 野深神社を過ぎ左右に広がる牧場をぬけて4キロ、上野深生活館の横手に鎮座しています。

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         上野深神社(かみのぶかじんじゃ)
         
           創  祀    大正9年(1920)10月16日
           祭  神    天照大神(アマテラスオオミカミ)

           所在地    浦河町字野深246番地
           社  殿    5坪
           社殿様式   流造

           例  祭    春 4月12日   秋 9月12日
       由緒
上野深地区は従来野深神社氏子でしたが上野深高台、中段の開拓が進むにつれて戸数人口が増加し大正8年(1919)上野深地区に第二野深小学校の開校もあり、住民より神社創建の気運が高まり、野深神社より祭神天照大神の分神をうけて大正9年現在地に2坪の社殿を建立しました。

昭和44年(1969)8月20日社殿が老朽化したために住民より寄付を募り5坪の社殿を建立しました。

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例祭当日参拝してきました。

鳥居をくぐって100㍍の参道、緑の木々につつまれた上野深生活館の広い敷地の横手に静寂なたたずまいをみせていました。
社殿には自治会婦人部の方々が詰めており、参拝者にお神酒をふるまっていました。
生活館の前庭には多くの住民が集いおもいおもいの飲み物を片手に語り合っていました。

上野深神社は浦河では西幌別駅前神社につぐ新しい神社ですが、開拓の歴史のなかで創祀された神社で自治会の方々のお話を聞いていると神社にたいする敬虔な思いがつたわってきます。

祭りには子供みこしがねりあるき、参道には露店も出店していました。

     引用文献    浦河新町史
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by sinanoo | 2009-10-26 23:14 | 浦河の神社
天馬街道の紅葉
浦河から帯広に通ずる国道236、通称天馬街道を紅葉をながめながら歩いてきました。
10月19日見ごろをむかえていました。
シラカバ モミジ イタヤカエデ カツラ アサタそれにシラカンバのシロがとけこんで五色渓谷とも呼ばれているとうり、五色の秋の彩りを楽しんできました。e0104596_20345949.jpg
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パッチワークをおもわせる紅葉です。e0104596_2051837.jpg
街道の左右に広がる牧場、馬が紅葉にとけこんでいるようです。e0104596_20551721.jpg
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標高500㍍にある翠明橋公園から眺めた望岳橋と紅葉です。e0104596_2172437.jpg
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燃えているようなもみじ
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by sinanoo | 2009-10-24 21:14 | うらかわ いろいろ
浦河の神社 (18) 野深神社
道々348号線に面し、下野深地域の山側にある野深生活館の横手に鎮座しています。

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           野深神社 (のぶかじんじゃ) 
       創  祀  明治31年(1898)9月12日
       祭  神  天照大神 (アマテラスオオミカミ)
              天思兼命 (アマノオモイカネノミコト)

       所在地   浦河町字野深186番地
       社  殿   3坪
       敷地面積  650坪
       社殿様式  流造
       例  祭   春  4月12日    秋  9月12日

    祭神  天思兼命( アマノオモイカネノミコト)
神話に登場する神で天照大神が岩屋に隠れたとき、八百万の神々が天安河原に集まり会議」を開いた時にこの神々の議長として深くかかわり、天照大神を岩屋から引き戻したとして智謀の神いわれています。

      由緒
明治31年(1891)9月12日 当時野深106番地山下源七の宅地の祠に屋敷神として祀られていた天照大神を部落の総意で現在地に1坪の神社を建立して祀り野深神社と称しました。

創建当時わ姉茶地区、上野深地区も氏子として奉祀していましたが、明示32年(1899)に姉茶神社、大正9年(1920)に上野深神社が建立されて神社区域から離れたため、現在では下野深地区の神社となっています。

明治35(1902)年11月4日 社殿1坪半を増築し天思兼命を増祀しました。

昭和33年(1958)9月27日 日高地方を襲った台風22号により社殿が倒壊し翌34年(1959)9月11日地域住民に寄付を募り、3坪の社殿を建立しました。

昭和55年(1980)篤志家の寄付を受けて社殿内部の塗装、屋根の葺き替えを行い、鉄製の鳥居を建立しました。

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     棟札
明治35年(1902)に社殿を増築したさいに書かれた棟札が残されています。

表には増祀した天思兼命、手置帆負命(タオキホイノミコト)、彦狭智命(ヒコサジノミコト)、世話人として13名の名が記されています。

裏面には明治35年11月4日上棟式執行。
棟梁 長谷川太一郎、 大工 安達浅次郎
木挽 上山藤蔵  高岸三吉と記されています。


  神社境内に白龍神社が鎮座しています。

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    白龍神社の由来
松浦武四郎の記録によると野深には13戸のイカペッコタンとヌプカコタンの二つの大きなコタンがあったとしるされています。
      口碑伝承

「この野深コタンの真向かいに高いポロイワがある。この山は神様の山、カムイヌプリとよんでいた。この山の中腹に沼があり、昔コタンの人達は木を切ったり仕事をしていた。

 あるときコタンの酋長の娘がこの沼に水を汲みに降りていったがなかなか帰ってこないので見に行くと息絶えて倒れていた。
タンカをつくっりそれに乗せてコタンに連れ帰ったが、さっぱりよくならなかった。酋長が無理にそのわけを聞くと、息絶え絶えの中から次のような恐ろしいことを語りだした。

「水を飲もうと沼に降りてゆくと、沼のなかにに流木のような大きなものがかすかに動いており。よく見るとまっかな鶏のとさかのようなものを頭に付けた怪物がぐっと首をもたげて私を見つめていたのです。その瞬間気絶したのです・・・・・」
言い終わると息をひきとった。
その瞬間にわかに暗くなり物凄い雷雨となった。それもほんの少しのことで、また空は明るくなりもとの静かなコタンとなった。

 コタンの古老達はこの不思議な沼の怪物こそ白い龍神様ではないかということになり、コタンの守り神として沼の淵に祠をたてて祀った。」



祠はいつの日か沼の淵から麓に下ろされアイヌの守り神として祀られてきました。

その後野深の現共栄産業の裏手にある大樹の下に祠が移され、例祭には多く名アイヌの人々が集まり祭りの儀式が行はれていました。
生け捕りにしたクマの霊魂を神の国に送り返す、アイヌ民族の伝統儀式「イオマンテ」もとり行われていたと云われています。

祭りを司っていたアイヌの人々の多くが高齢化して祠の存続がきびしくなり野深神社の敷地に神社を建立し白龍神社として奉祭しました。

例祭は野深神社と同日に行い、維持、運営は自治会が行っています。

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例祭
祭り当日は神社横にある生活館の前庭に地域住民があつまり、模擬店が出店して祭りをたのしんでいます。
こども神輿も部落をねりあるき、祭りの賑わいに花をそえています。

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参照引用文献       浦河町史    コタンを訪ねて(山本融定)









                   
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by sinanoo | 2009-10-23 20:41 | 浦河の神社
沙流川渓谷の紅葉
この12日富川から国道237線を北上して旭川に行く途中、日高町轟橋から眺めた沙流川渓谷(サルガワ)の紅葉です。
いまが見頃です。e0104596_17122535.jpg
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標高1000メートルの源流から日高竜門までの50キロにわたり、川の両岸にヤマモミジ、ミズナラ、カツラ、ナナカマドの紅葉した木々が迫っています。
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by sinanoo | 2009-10-14 17:20 | 花 木 自然
浦河の神社 (17) 姉茶神社
元浦川の右岸に広がる姉茶地区、道々静内浦河線から山側に折れて姉茶東栄1号線にはいり姉茶川を渡り緑の樹木に囲まれた小高い丘の中腹に鎮座しています。

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          姉茶神社 (アネチャジンジャ)

         創  祀   明治32年(1899) 4月
         祭  神   天照大神

         所在地    浦河町字姉茶538番地
         社  殿    3坪
         敷地面積   300坪
         社殿様式   流造
         例  祭    春 4月13日  秋 9月第2土曜日

           由緒  
明治32年(1899)4月 当時野深神社の氏子でしたが、開拓の進展とともに移住者が増えて人口が430人をこえ、住民の心のよりどころとして、また明治31年(1898)浦河支庁管内に徴兵令が施行され兵役に赴く兵士の歓送、戦勝祈願のための神社の必要性ともあいまって野深神社から分神を受けて、富岡牧場の東側の村有地に建立されました。

明治44年(1911)4月 現在地に300坪の敷地を選定し、住民の手で社殿を担ぎあげて移転しました。

大正15年(1926)9月 拝殿を新築し住民の集会など使われていましたが昭和13年(1938)10月に青年会館建てられ、拝殿が老巧化したこともあって取り壊されました。

昭和45年(1970)9月 社殿が老巧化したため住民から寄付を募り3坪の社殿を新築しました。e0104596_12392933.jpg


昭和52年(1977)鉄製の鳥居を住民、篤志家の寄付で建立しました。

例祭当日は住民が神社下にある姉茶生活館に集まり祭りを楽しんでいます。
神社の維持、運営は自治会が行っています。

       アイヌの神々を祀る もう一つの姉茶神社
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姉茶神社の境内の右奥に明星大善神(星の神、夜明けの神)を祀る神社があります。
合わせて水の神竜神(ワッカウシカムイ)、姉茶に住む仏師堀敏一さんの彫った馬頭観音も祀られています。
自然の神を崇めるアイヌのコスモロジー(世界観)をみることができます。

明治30年頃には姉茶に多くのコタンがあり39戸180人のアイヌの人々が暮らしていました。

姉茶に住むアイヌのフチ遠山サキさんは「姉茶神社は私の聖地です。昔は多くのコタンの人々が先祖を守ってくれた神を敬い参拝していたのに、いまは参拝する人が高齢のため多く死んでしまい、神社の手入れがおろそかになっている」と嘆いています。

例祭は姉茶神社の例祭に合わせてアイヌの人々によって行われています。

例祭当日明星大善神ののぼりが奉納されていました。自治会役員の方が「何年かぶりにみるのぼりだな」
といっていました。神社の賑わいがもどるのでしょうか。

     姉茶のこと
姉茶はアイヌの聖地として崇められた「ポロシリ」(幌尻岳)。その頂きに連なる日高山脈の水系にある元浦川の右岸に位置しています。

姉茶の奥地には沢が多くあり昔アイヌの人々は魚を常食としていたために川を渡る舟を造るため良質の木材がある沢の奥にコタンを形成していました。

この地を訪れた松浦武四郎の記した日誌によれば「寛文年間に金を掘り起こし跡多し、また此山盛んなる比には金丁共も余程この辺に移住し、畑を開きし由、今その畑跡多し」と記されておりこの地が天恵豊かな地であったものと思われます。

明治13年(1880)青森県から移民が開拓に入り、明治15年(1822)に赤心社の開拓団が元浦河に移住、姉茶地区に10戸がはいりました。
明治19年(1886)赤心社牧場が野深、姉茶にまたがる400万余坪の広大な規模で開設され、姉茶には牛牧場、野深には馬牧場がおかれました。

明治24年(1891)には越前大野より25戸の移住があり、以後大野からの移住者が増えてゆきました。

明治37年(1904)4月 旧北海道土人保護法が制定され、アイヌ民族の農耕民化と教育による同化のため、「特殊アイヌ学校」(通称 旧土人学校)姉茶尋常小学校が設立され昭和12年(1978)6月30日同法の改正により野深小学校に合併されました。

昭和13年(1938)1月 字名改称で姉茶は瑞穂(元浦川の左岸旧西姉茶)姉茶、富里にわかれました。

昭和22年(1947)農地改革が行われ大地主だった赤心社の土地が小作人に売り渡され、自作農とし農耕の道を歩みはじめました。

       参考引用文献    浦河町史
                    遠山サキさんの項 Hatena Key Word 「GIJI-NOTO」












    

    
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by sinanoo | 2009-10-10 23:39 | 浦河の神社
浦河の神社(16) 浜荻伏金刀比羅神社
  浜荻伏のほぼ中央、国道235号線に面し鎮座しています。
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     浜荻伏金刀比羅神社 (ハマオギフシコトヒラジンジャ)

        創祀     明治26年(1893)頃
        祭神     金毘羅大権現

        所在地    浦河町浜荻伏181番地
        境内面積   600坪
        社殿面積    15坪
        神殿様式    流造

        例祭     春 4月9~10日
                秋 9月9~10日
        氏子     160世帯

       由緒
明治26年頃浜荻伏に居住していた小出谷政一が漁業を始めるににあたり、讃岐の金刀比羅宮に詣でて御神鏡を拝受し祠を建て祀ったのが始まりとされています。

明治32年(1899)祠を改築、大正5年(1916年)頃老巧化したため、住民とはからい社殿を新築し海上守護の神である金毘羅大権現に海上安全、豊漁を祈願し部落の氏神となりました。

昭和42年(1967)9月氏子の寄付と漁業関係会社、篤志家の寄付により現在の社殿を建立しました。
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神殿には金刀比羅宮はら拝受されたとされる御神鏡がおかれています。
神殿におかれた神札に五亭龍神、岡像妙神、天御中生神、の名が書かれていますが、いつのものかなぜここに祀られているかは不詳です。
この地にあった祠を合祀したのではないか、と推測されます。

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祭礼の日に鳥居に御神燈としめ縄を模した魚網が奉納されています。
この魚網は岩手県から移住した漁業者が50年前にふるさとの神社で行われていた風習に習い、自ら造り奉納したもので、春、秋の例祭には鳥居にかけられています。

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秋の例祭には神輿、こども神輿が部落をねりあるき祭りを盛り上げています。
社殿前ではこども相撲が奉納されています。


神社の維持、管理は漁業者で組織された氏子総代のもとで行われていましたが、漁業以外で生計をたてる居住者がふえ、現在は自治会が行い、例祭も自治会が行っています。

          引用参考資料    浦河町史
                       自治会長からの聞き取り
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by sinanoo | 2009-10-04 14:21 | 浦河の神社
今夜は「仲秋の名月」でした
今夜は「仲秋の名月」とよばれる月の鑑賞日でした。
山の端に月が上りはじめた夕暮れからお月さまを追っかけてきました。

例年曇ったり雨の日が多いのですが今年は明るくまん丸な月でした。
なんとなくほのかな明るい風情を賞するものですね。

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15夜といえばススキと団子がつきものです。
大通にあるお店の店頭にススキがかざってありました。

今夜の15夜は満月だと思っていたのですが、今年の満月は「十六夜(いざよい)」の4日だそうです。
十七夜は立待月(たちまつずき)、十八夜は居待月(いまちずき)、寝待月(ねまちずき)、更待月(ふまちずき).....と月には一夜一夜呼び名が変わってゆきます。
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by sinanoo | 2009-10-03 21:30 | つれづれ
浦河の神社 (15) 瑞穂神社
国道235号線、荻伏市街地より野深に通づる道々248号線 野深荻伏停車場線にはいり、牧場の広がる瑞穂、小高い山の麓に鎮座しています。

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           瑞穂稲荷神社 (みずほいなりじんじゃ)

         創祀    明治14年(1881)6月
         祭神    稲荷大明神
         
         所在地   浦河町字瑞穂166番地
         社殿様式  流造
         社殿面積  3坪 
          例祭     9月12日
       由緒  
明治14年(1881) この地に入植していた開拓者が語らい、心のよりどころとして又農耕えの願いを込めて食物、農業の神である稲荷大明神を北俣荘助の所有地の先の山の上に祠を建て奉斎しました。

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明治27年(1894) 姉茶工藤美松によって奉納された額

明治27年(1894)3月15日改築され「稲荷神社」と呼ばれていました。
当時の荻伏村の氏神として住民に広く敬われ、例祭には多くの人々が集まりにぎやかな祭りが行われていました。
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大正4年(1915)9月20日 社殿が老巧化しため社殿を新築しました。
昭和13年(1938)4月 姉茶が瑞穂、姉茶、富里に分区されたため「瑞穂稲荷神社」と改称しました。

昭和31年(1956)4月12日 老巧化した社殿を改築しました。
昭和53年(1978)10月13日 社殿を200㍍下の瑞穂生活改善センター横に移転新築し鳥居を建立しました。

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   瑞穂のはじまり  
瑞穂の開拓の先覚者と云われる平井熊五郎は慶応年間に越前より浦河に移住し明治9年(1876)元浦川に転居、明治12年(1879)西姉茶(現在の瑞穂)にうつり赤松宇衛門とともに奥地の開拓にあたりました。

明治13年(1880)岩手県人北俣荘助は井寒台において漁業に従事していましたが西姉茶に移り住み、平井熊五郎と共に開拓に力をそそぎました。
稲作を試み二年後の明治15年(1882)には反当り1石の収穫をあげ、荻伏村での稲作に先鞭をつけたといえます。
  
明治24年(1891) 越前大野より多数の移住者があり開拓は進み、元浦川の度重なる氾濫による苦難にあいながらも肥沃の地えと変えて行きました。

      参考引用      浦河町史
                  瑞穂自治会長高岸氏から聞き取り     

     
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by sinanoo | 2009-10-01 21:45 | 浦河の神社