温泉めぐりと神話への旅 
by sinanoo
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日高山脈菜園 作男日誌(8) ジャンボカボチャ
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 今年佐呂間町の名物ジャンボカボチャ「アトランテックジャイアント」の種を「シンデレラ実行委員会」から送っていただき、マニアルどうりに発芽させ6月5日畑に植え付けました。
低温がつづき、つるの成育がおくれ、花がさいても着果せず、受粉をくりかえしてやっと8月中旬に1つだけ着果しました。

肥料をあたえ、(大きくなれ、大きくなれ)と気合をいれたのですが、やっとこの大きさです。
シデレラ実行委員会から9月6日、7日の「シデレラ夢祭り」に出品しませんか、と案内状が届きましたが、ジャンボならぬションボリカボチャでは、話になりません。
このカボチャ条件がよい畑で育てると100キロまで育つそうです。

気温が下がると成育がとまるので、あとわずか2週間、くるくる変わる天気予報に一喜一憂、せめて10キロぐらいになってもらわないと。
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by sinanoo | 2008-08-31 19:01 | 菜園日誌
浦河の神社 (6) 富里神社(とみさとじんじゃ)
 道々浦河静内線に面し、牧草地の広がる富里生活館の敷地に鎮座しています。
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             開基     昭和12年(1937)
             祭神     天照大神
             例祭日   春4月10日 秋9月10日 
 明治37年(1904)4月、明治34年(1901)に施行された北海道旧土人保護法9条(旧土人ノ為シタル場所ニハ国費ヲモッテ小学校を設置シタルヲ得)により当時アイヌ人の集落が集まっていた姉茶に「特設アイヌ学校」「(通称旧土人学校)公立姉茶尋常小学校が開校しました。
昭和12年(1937)北海道旧土人保護法の改正で9条が削除され廃校になり、児童は野深尋常小学校に統合されました。
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廃校となった姉茶尋常小学校の校舎の一部は部落会館として移転し、旧御真影奉直所(宮内省から各学校になかば強制的に貸与された、天皇、皇后の写真「御真影といいます」と教育勅語を安置したところ、奉安殿ともいいます。)は鈴木長七宅のとなりに移転、富里神社を建立しました。

祭神の天照大神については、御真影を廃校にあわせ宮内省に返納したため、天皇の皇祖神といわれている天照大神を祭神として奉祀したものと考えられます。

昭和49年(1974)建物が老巧化したため、地域住民から寄付を募り宮里生活館横に3坪の社殿をたてて移転しました。


富里神社とは直接関係はありませんが、神社の社殿として移築された建物が廃校となった姉茶小学校の旧御真影奉直所であることから、姉茶小学校の開校から閉校までのいきさつを「北海道旧土人保護法」に関連して書いてみました。
興味がありましたら読んでください。

 「北海道旧土人保護法」
北海道旧土人保護法は明治32年(1898)公布され12条からなり、土地の下付、医療費の補助、学校の設立などをもりこんだ内容です。
主にアイヌ民族の農耕民化と教育による同化を内容としていました。

法律制度を支えていたものは生存競争に必然的に敗れた弱者アイヌ民族を「恩恵的」に保護するという考え方があり、民族の権利といった観点はもちろんのこと、アイヌ民族の困窮が開拓政策そのものの結果であるという認識にかけていました。

土地の下付についても1戸15000坪以内に限り無償とされていましたが、和人への土地処分が早い時期にすすんだため、日高では十分な面積の農耕適地が得られず、1戸あたり3800坪~7000坪にとどまり、住居から遠い農耕不適地が下付されることも多かったようです。

 「アイヌ特設学校」 (通称旧土人学校)
明治34年(1901)道庁は「旧土人児童教育規定」を制定、アイヌ児童に対する教育方針をさだめました。その重要な特徴は和人児童との別学を原則としました。
この年以降北海道旧土人保護法9条にもとずきアイヌ民族が集落をなし、アイヌ学齢児童が30人を有する部落には国費で 「アイヌ特設学校」当時の呼び名で旧土人学校を設立、明治42年(1909)には21校に達し、日高では8校あり浦河では姉茶に設立されました。

姉茶尋常小学校の在籍児童数は設立当時の明治37年で33名、43年で61名大正になってから1時減少しましたが、大正8年以降40名を越し廃校になった昭和12年は44名が在籍していました。

規定では 「アイヌ特設学校」以外の公私立小学校にアイヌ児童が通う場合でも、できるだけ和人児童と分離して教育するように定め、学校ではアイヌ語、アイヌ風の生活習慣を消し去り日本語や和人風の生活習慣をみにつけることを強いていました。
授業内容も和人向とは違って、3,4年生の児童には週2時間の農業実習が課せられるなど、実業が重視され、授業や儀式をつうじて天皇への崇敬の念をこめた国家主義観をうえつける教育がおこなわれました。

道庁は明示41年(1908)義務教育6年制えの延長にあわせて「旧土人児童教育規定」を廃止「特別教育規定」に統合しましたが、大正5年(1916)再び制定しアイヌ児童の就学年齢を1年おくらせ7歳とし、就学年限も原則として4年にして、教科目から地理、日本歴史、理科を削除し
全体の授業時間数も減らしました。
和人児童との格差が生じるのは必然で、アイヌ民族の強い反発をうけました。
この規定は大正11年(1922)に廃止されました。

昭和12年(1937)「北海道旧土人保護法」が改正され9条も削除されました。これにより「アイヌ特設学校」は廃校になり姉茶小学校も廃校になりました。
日高ではアイイヌ部落の戸数が分散し、又アイヌ特設学校は差別につながるとして反対があり昭和12年(1937)にはわずか福満、姉茶、上貫気別、長知内の4校になっていました。

法律の改正で社会的差別が解消されたわけではなく、共学が実現した学校の教室ではアイヌ児童が圧倒的な小数者となり差別されがちだったと云われています。

平成9年7月1日(1997) 「北海道旧土人保護法」は「アイヌ文化の振興並びに伝統に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(通称アイヌ新法)の施行にともない廃止されました。

 引用文献
     浦河町史
     旧土人学校 公立姉茶尋常小学校の歩み    浦河町教育委員会
     アイヌ民族に関する指導資料   アイヌ文化振興研究推進機構
     アイヌ民族と天皇制国家      新谷 行












 
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by sinanoo | 2008-08-30 22:00 | 浦河の神社
浦河の神社 (5)  井寒台神社(いかんたい じんじゃ)
 海岸線に沿って並ぶ、街並みの中ほど、国道236号線に面し丘陵の麓に鎮座しています。
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             開基  享和元年 (1801)
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             例祭  9月11日~12日
 由緒
幕府はロシアの蝦夷地への侵入、アイヌの幕府への反抗をおさえ、撫育奨励のため、享和元年南部藩に東蝦夷地鎮衛を命じまし、南部藩は100人余の兵をウラカワに派遣しました。
派遣された南部藩の家臣一戸五在衛門政伊は井寒台海岸に現存する、神威岩(カムイエカルランタイ)が天神の天降った岩であると信じ、深い信仰を奉げ岩の近くに祠をたて、稲荷大明神を奉祀し国の安泰を祈願しました。(文化18年 1814 撤収)
歳月がたち風雪にさらされ、破損がはげしくなり明治3年住民木村義孝が再び祠をたて漁業豊漁を祈願しました。

明治25年本道開拓のため移民が増え100戸を越えるまでになりました、住民13人が発起人になり旧跡」を保存し、村の祭礼祠にするため住民より浄財を募り、みたび祠を建立しました。

昭和44年老巧化した鳥居を補修し、54年9月に当時では珍しい塩化ビニール製の鳥居をたてました。
また社殿の補修もたびたび行われましたが昭和47年10月に12坪の社殿が建立されました。
平成19年神社裏の丘陵の上にある、三吉神社を習合し社殿の補修をおこないました。
祭礼日には露店も出店し子供神輿が街をねりあるき、カラオケ大会ももようされ、住民が祭りにひたります。
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      井寒台の沖に浮かぶ神威岩、地元ではカムイヒラと呼んでいます

  井寒台の名前の由来
昔この部落は幕府の定めで、他の地と同じく和人とアイヌの居住地を限定し、往来を禁じていましたが、文久元年(1862)この地に番屋チャミコツに小憩所があり、自分稼ぎと称する福山の人が6人いました、そのうち2人が永住人となりその禁は破られ、これが和人の土着のはじまりとされています。

古老の話によると、慶応年間にはいってからすこしづつ和人が増え、このときアイヌの人達は和人を珍しがり「イカタイ」「イカタイ」といってお祭りをしたそうです。
和人が多くなるにつれこの部落を「イカタイ」と呼ぶようになり、これが何時しか「イカンタイ」に変わり井寒台の文字があてはめられたといいます。
イカンタイとは「海産物が多く獲れる」という意味あるとされ、本来の地名の意味は一変しましたが、漁業を主体とするこの部落をよくあらわしています。

     引用
   浦河町史
   アイヌ語地名集成  佐々木和利編
   アイヌ伝承の砦   宇田川 洋
         
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by sinanoo | 2008-08-22 20:30 | 浦河の神社
うらかわ港まつり
ここ数年雨にたたられた港まつり、今年は1日目ちょっと雨にみまわれましたが、大勢の観客がまつりにひたった2日間でした。‘‘うらかわにこんなに人がいるの‘‘会場を訪れたとなり町の友人のおどろきの声でした。
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         昨年は雨で中止になった花火。夏の夜空を華麗に彩りました
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         漁組青年部,8艘による大漁旗をなびかせての海上パレード 
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 浦河高校吹奏楽部、今年日胆地区コンクールで金賞受賞、素敵な管のひびきでした
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さぼてんNostyleによるヒップホップダンス ヒップホップミユージックにのって軽快に躍動感あふれるダンスです
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   向別勇み駒太鼓 暁星学院の生徒による演奏です、バチさばきは見事でした  
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   上野深風雲神太鼓 古くから伝わる太鼓、子供達による力強い太鼓のひびきです
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 昨年は大雨のなか踊ってくれたカマレイのおねいさまがたによるフラダンス、ウクレレの音にのって夏の宵に涼しさを送ってくれました。
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 イベントのしんがり、今年かぎりで解散のうわさのある 浦河若駒会のヨサコイ、ソーラン節のおどりでは観客をまきこんでの乱舞となりました。
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by sinanoo | 2008-08-19 20:05 | うらかわ いろいろ
セミの声がきこえませんね
夏本番といえば、せみしぐれ。例年なら7月中旬から8月1杯鳴き声がきこえてくるはずですが、今年はまだせみの鳴き声はきいていません。

街なかでギラギラした太陽のもと、せみの鳴き声は暑さを増幅させますが、山の菜園できく声はいっぷくの清涼剤となります。
せみは羽化後、日にあたるため草にとまっていることがありますが、今年はみかけません、抜け殻も探しまわったのですが見つかりませんでした。

道新の記事によると、せみは道内では10種類、数が多いのはエゾゼミ、コエゾゼミで、今夏はこの2種類の発生が少ないのではないか、理由として(1)今年は親世代の個体が少なかった、(2)土の中で数年すごす成長期に冷夏など天候が不順だったこと(3)土の中で幼虫がネズミなどの天敵に捕食された、などが考えられられるそうですが、はっきりとは分からない、と報じています。

お盆もすぎ、秋の訪れがはやいこの地、上杵臼、今年はせみの声をきくことなくおわりそうです。
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by sinanoo | 2008-08-18 16:22 | うらかわ いろいろ
天孫降臨の里 (7) 高千穂神社
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       国史見在社  旧村社 神社本庁包括 別表神社

       祭神 高千穂皇神(たかちほすめかみ)
             日向3代の皇祖神とその配偶神
              天津彦火瓊々杵命(アマツヒコホノニニギ)
              木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)
              併せ6神
           十社大明神〔じっしゃだいみょうじん)
             三毛野命とその妻子神
              三毛野命(ミケヌノミコト)
               併せ10神
       例祭日 四月十六日

天孫降臨の地高千穂の中心に位置し、天慶年間に高千穂地方の領主だった高千穂太郎政治が高千穂18郷88社の総社として崇めて以来人々の崇敬をうけています。
日本神話に登場する日向三代の皇祖神を祭神とし、又神武天皇の兄神ミケヌノミコトとその妻子神「十社大明神〔じっしゃだいみょうじん)」として祀ったのが始まりとされています。明治6年三田井神社と改名、同28年高千穂神社と改め現在にいたっています。

鎌倉時代源頼朝の名代として秩父の畠山重忠が天下泰平を祈って代参した際に奉納した、鉄製狛犬が国の重文に指定されおり、安永7年(1778)に建立された本殿も重文に指定されています。
境内には重忠が手植えしたと伝えられる樹齢800年の杉は「秩父杉」と呼ばれています。


 祭神 ミケヌノミコト
ミケヌノミコトはニニギノミコトから天孫族4代目にあたる、神武天皇の三番目の兄にあたります。古事記、日本書紀によると、東征した日向軍を率いたのは神武の長兄イツセノミコトでしたが、生駒山のの麓で敗北しイツセノミコトは矢傷を負って死にます、いったん熊野に迂回しますがこの間に後継者争いがあったものとおもわれ、神武が後継者に選ばれたことで次兄のウナヒノミコト熊野の海に入ったと記されています。
三兄ミケヌノミコトについては「常世の国に行きたもう」と記され、常世の国とは死後の世界を意味し、ミケヌノミコトも次兄と同じく海に入ったと解釈できます。

高千穂神社にはミケヌノミコトは大和征服を終えてから故郷高千穂にかえったと、記紀とは違った伝承があります。しかしミケヌノミコトは、後継者あらそいにやぶれ、故郷に帰ったとみるのが自然だとおもいます。

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ニニギノミコトの晩年には天孫族は高千穂より南東の西都原(サイトバル)に拠点を移しており、二代目ヒコホホデノミコト、三代目のウガヤフキアエズノミコトのころには南九州全体を支配しており、天孫族発祥の地である高千穂は支配力が手薄になっており、国つ神サルタヒコ一族も東征についていったにちがいなく、その間にコウロギ一族のなかでもサルタヒコ路線に反発する荒ぶる神鬼八一族が、天孫族に反逆ののろしをあげこの地を占領していました。

ミケヌノミコトはこの荒ぶる神を倒してふたたび高千穂を支配下におきました。

  ミケヌノミコトが鬼八を倒している木像

   「鬼八伝説」
高千穂にはミケヌノミコトが鬼八を殺した話が各所にのこっています。
ミケヌノミコトに殺された鬼八は何度殺されても生き返るので、ミケヌノミコトは首、胴、手足をバラバラにしたのですが、鬼八は執念深く、殺されてもその怨念は強く霜を降らせて農作物に害を与えるなど、さまざまな祟りをしました。
高千穂の人々は鬼八のために首塚、胴塚、手足塚をつくりその霊をなぐさめることにしました。
伝承ではその霊をなぐさめるために、天正年間(1573~92)まで毎年16才になる少女を生贄として奉げたといいます、岩井川の城主甲斐宗摂があまりにもかわいそうだといって,代わりに4×4=16頭の猪を奉げることにしたといいます。
鬼八が猪の肉をたいへん好むということは、やはり鬼八は狩猟採集を主とした縄文人であったからでしょう。
鬼八伝説は阿蘇にも伝えられています。

これらの鬼八伝説はこの地方で長い間くりひろげられた天孫族と、土着勢力との抗争を物語るもので、政治権力によってつくられた記紀によって、天孫族の活躍の伝説になったと云えるのではないでしょうか、この伝説は抗争に敗れた、鬼八一族の悲哀を伝える伝説なのでしょう。















             
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by sinanoo | 2008-08-14 21:00 | 神社紀行
やっとみつけた七夕飾り
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 ささのはさらさら 軒端(のきば)にゆれて
 お星さまきらきら 金銀すなご


8月7日七夕の日、ここ数年、目にしなくなった軒先に飾られた七夕飾りを探し回り、友人の情報でやっとみつけました。
笹に願い事をかいた短冊をつるした、昔ながらの手作りの七夕飾りで、なにかほっとした気持ちになりました。

保育園、幼稚園それに老人ホームなどで屋内に七夕飾りを飾っていますが、家庭の軒先や商店の店先に飾る風習はなくなってしまいました。

還暦をこえた友人によると、小学生だったころは子供や孫のいる家や商店でも、軒先に願い事をかいた短冊をつるした七夕飾りをたて、夕暮れ時になると北海道特有の(ローソクもらい)もおこなわれ、
         「ローソク出せ出せよ 出さぬとかっちゃくぞ
                    おまけにくいつくぞ」
と、はやし歌を歌って就学前の児童から小学生の低学年までの子供達が5,6人の集団で、ゆかたを着、手に缶でつくった提灯(缶灯籠)をもって、家をまわりローソクを貰っていました。
いつの時期からかこの風習もなくなってしまいました。

古くからひらけた道南地方の函館や江差では、いまでもこの風習が盛んで、街全体がこの伝統的な風習を大切に守り、盛り上げています。

新しいイベントが数多く企画されていますが、子供達を主体にした七夕祭りのような古くからの風習を大切にし見直して、私達町民も商店の人達も、目先にとらわれず、街、商店街の賑わいの一つにして行ければ、とおもいます。
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by sinanoo | 2008-08-11 21:07 | うらかわ いろいろ
日高山脈菜園 作男日誌 (7)やっと夏の日差しが
7月に入って2日と晴れる日がなく低温続き、それにこの4日間雨それも大雨でした。
今日山の菜園は久しぶりの快晴、茶色になった葉をおとしていた白樺も今日は濃い緑色の葉に戻り、朝日にキラキラ光っていました。気象に敏感ですね。
 
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気温も一気に上がり30度を記録しました。
菜園のあるこの地上杵臼は海抜180メートル左右を山に囲まれ、「春遅く、秋早く、夏暑く、冬寒い」と云われ、浦河市街地と比較すると5℃~8℃の温度差があり、今日は市街地22℃、上杵臼は30℃で8℃の温度差がありました。
それにしても暑かったですね。
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天気の回復が遅すぎました、
大根今日全量収穫、トウの立ってしまった辛大根、生育の悪かった春大根、形も肌も悪く、なんとか大根にみえるかな、といったところです。
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成長の悪かったナスも初収穫、ししとう、ピーマンもこの暑さで夕方までに一斉に花をつけました、快晴がしばらくつづき気温の上昇も見込まれ、この遅れがどこまで回復できるか、気をもんでいます。
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         いんげんの花                            ピーマンの花

      
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by sinanoo | 2008-08-04 21:48 | 菜園日誌
天孫降臨の里 高千穂(6) 天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)天安河原(あまのやすかわら)
 清流をはさんで東本宮と西本宮があります。
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      東本宮 社殿                      西本宮 拝殿
      祭神 東本宮 天照皇大御神 (アマテラスオオミカミ)
          西本宮 大日孁命 (オオヒルノミコト)アマテラスオオミカミの別名
           旧村社   現神社本庁包括 別表神社
 西本宮は本殿はなく、記紀に登場する天岩屋であると伝承されている、洞窟をご神体としています。

  由緒
創建の由緒は不明ですが社殿によればニニギノミコトを鎮祭したのが、起源であるとされています、地元の郷土史研究家によると高千穂町最古の高千穂神社の創建が、伊勢神宮と同じ垂仁天皇の時代とされていることから、この時代に建てられた、と推測しています。
現在ある社殿は弘仁年間(810~824)に大神惟基により再興され、文政4年(1821)改修がおこなわれ、明治30年に社殿の造営がおこなわれています。

   天岩戸伝説
  古事記の記述によると
「アマテラスの弟スサノウのあまりにも乱暴なふるまいに怒り、アマテラスが天岩戸に引きこもってしまった、高天原も葦原中国(アシハラナカツクニ=日本国の美称)も闇になり、様々な禍が起きた。
そこで八百万の神々が天安河原に集まり、どうすればよいか相談し、常世の長鳴鳥(鶏)集めて啼かせ、アマノウズメが岩戸の前に桶を伏せ踏みならし、胸をさらけだし、裳の紐を陰までおしさげ踊った、すると高天に鳴り響くように八百万の神々が一斉に笑った。
この笑声をきいたアマテラスは、何事だろうと天岩戸をすこしあけ外をみた、その時岩戸のかげに隠れていた力持ちの神タジカラオが、すかさず戸の隙間に手を入れ戸を引きあけ、アマテラスの手をとって外に引き出し、やっと高天原と葦原中国に光がもどった」

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タジカラオが引きあけた戸は信州戸隠まで飛んでいったという伝承があります。戸隠神社にはこの戸が祀られています。
例祭にはこの像のまえで一畳の畳をなげるイベントが行われています。
 

ニニギノミコトが天降ったこの地に高天原があるのはおかしな話ですが、ニニギにとっては、自分をこの地につかわした祖母、アマテラスを祀る場所をつくらないほうが方がおかしく、高天原の天岩戸に似た洞窟を探してアマテラスを祀ったのではないかとおもわれます。

あまの岩戸をぜひみたいとおもい、神社にお願いし神官からお払いを受け断崖のうえの遥拝所に立つと、そそりたった対岸の山頂から谷底まで二百メートルちかい谷の山肌に、ナタをたたきこんだような亀裂が走り、その中ほどの崩落部分が天岩戸だといい、薄くかかった霧のなかの風景は神話の世界そのものです。
撮影は禁止で、神官も立ち入ることできない聖域で西本宮のご神体になっています。
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11月3日 天岩戸神社の神楽殿で、無形文化財に指定されている、高千穂神楽33番が奉納されます。


   天安河原(あまのやすかわら)
西本宮から一旦国道に出て岩戸川の川岸を上流に10分ぐらい歩くと、川縁にアマテラスが天岩戸に隠れたさい八百万の神々が集まってアマテラスに天岩戸から出てきてもらおうと相談したと云う天安河原にでます。
 しかし梅原 猛氏は「高天原神話の舞台がすべてこの地にあると云うことになりますが、まあちょっと作り過ぎですね」と評しています。
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       岩戸川                      天安河原に通ずる散策路
岩戸川そってつくられた散策路を500メートル程歩き、小さな石橋を渡ると間口40、奥行30メートル程の洞窟、仰慕窟(ぎょうほういわや)がありその中に、主祭神 思兼神(おもいかねのかみ=八百万の神)を祀った天安河原神社がたっています。

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薄暗い洞窟や川原には賽の川原を思い浮かべるようような、ケルン状に積まれたおびだだしい石塔が並び、積まれた石1つ1つに人々の願いがこめられています。
八百万もの神がいるのですから、どんな願いも叶えてくれるでしょう。
以前はこの荘厳さにおされ、地元の人々はあまり近づかなかったようです。

 
                      

 
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by sinanoo | 2008-08-03 16:46 | 神社紀行