温泉めぐりと神話への旅 
by sinanoo
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カテゴリ:神社紀行( 19 )
帯廣神社
帯広市の中心、十勝支庁に隣接して帯広の流通の要となる国道38号線に面して鎮座しています。e0104596_2057796.jpg

  帯廣神社(おびひろじんじゃ)

    所在地  北海道帯広市東3条南2丁目1番地
    創祀    明治43年(1910)9月
 
    祭神    大国魂神   (オオクニタマニカミ)  北海道の国土の神
           大那牟遅神  (オオナムチナカミ)   国土経営 開拓の神
           小彦名神   (スクナヒコナノカミ)   国土経営 医薬 酒造の神
             (札幌神社「現北海道神宮」より分霊を受けた)

    例祭     9月24日
    社格     旧県社
            神社庁包括別表神社 

    社殿様式  神明造
    境内面積  7218坪
    氏子世帯数  51,500世帯

    境内社    頓宮   春日神社

e0104596_21252027.jpg    神門
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   由緒
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明治15年(1882)静岡県松崎市の依田勉三が開拓団体「晩成社」を組織し下帯広村オペリペリ(今の水光円付近)に入植しました。
依田勉三の「備忘録」によると「明治19年(1886)7月16日のこの日は明治15年(1882)はじめてこの地に来り、この日を記念して地神を祭る」とありますが、帯廣神社とのつながりははっきりしません。

昔 現在の東8条南6丁目に柏の巨木があり、大洪水におそわれたときアイヌの人々がそれに丸木舟をつなぎ助かったという由来から敬われており、その神木に「天照大神」と書いた紙を貼り、しめ縄まわして神殿にみたて、そのまわりで草競馬を開いており、これが年中行事の「帯広の祭典」になったとおもわれます。

競馬はとても人気があり住民の有志が官地を借り受け、帯広監獄の受刑者の力を借り周囲242メートルの競馬場をつくり、同時に鳥居つきの神社をたてました。

「田辺孝三日記」の記載によれば「明治28年(1895)9月23日 本日ハ秋季皇霊祭ニテ帯広市街ニ神社ヲ設ケテ祭礼アリ 並ニ競馬会アリ 土地初メテノ雑踏ニテナカナカ繁華ナリ」と記されておりにぎやかなものであったようです。

明治33年(1900)社殿と鳥居が建造されました。(35年説、37年説もありますがたびたび改修があったものとおもわれます)
明治37年発行の「帯広市街地明細地図」には東4条西10丁目辺りに「帯廣神社」と記載された神社の絵が描かれておりその南東側は競馬場のようです。

このように開拓初期の帯広では住民が心のよりどころとして祠をたてて氏神を祀り祭礼を行う、庶民性の高いものであったと思われます。

競馬場前の神社も明治37年以前のいつの頃から地域住民から「帯廣神社」と呼ばれていたようです。

明治42年(1909)競馬場拡張計画にともない神社の移転がきまり、公園予定地だった現在地に仮殿を造営し参道は晩成社からの寄付で造営しました。
翌43年氏子総会を開き神社創立願を道長官に提出し同年9月札幌神宮(現北海道神宮9に赴き分霊をうけました。

これにより「帯廣神社」はいままでの由来をすべて消し去り、庶民の氏神から明治政府の国家神道をおしすすめる国策神社として新たに創祀されました。e0104596_23565977.jpg

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   年表
     明治44年(1911)  無格社
     大正 4年(1915)  本殿 拝殿造営
         7年(1918)  郷社に列する

     昭和 5年(1930)  県社に列する
        21年(1946)  社格廃止
        35年(1960)  鎮座50周年記念祭 頓宮造営

     昭和51年(1976)  神社本庁包括別表神社
        54年(1979)  鎮座70周年記念事業として社殿造営
        55年(1980)  社務所造営

     平成 2年(1990)  鎮座80周年記念事業として参道改修
         7年(1995)  鎮座85周年記念事業として祭務所改修 
        12年(1999)  鎮座90年奉告祭
                   春日神社を境内社として移転 社殿 社務所の造営

     平成22年(1910)  鎮座100周年記念行事を計画

     境内
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 昭和49年(1974)北海道環境緑地保護地に指定された7000坪の境内ちには、ハルニレ クルミ サクラが自生し、エゾリス シマリス アカゲラ ムクドリ シジュウカラ等の小動物や野鳥が住みつき緑豊かな杜に訪れる参詣者にやすらぎをあたえています。
    樹齢200年のハルニレ
  お守り
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 神社のお守りになかに人気のキテイちゃんのストラップつきのお守りをみつけました。

帯廣神社限定だそうで神社限定は北海道の神社ではここだけだそうです。


 依田勉三
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帯廣神社の国道をはさんだ真向かいの中島公園に明治15年(1882)開拓団体「晩成社」をひきいて下帯広村に入植し、十勝にはじめて鍬をいれた依田勉三の銅像がおかれています。

艱難辛苦の開拓が続き依田勉三は多くの事業を手がけましたが成果は得られずに昭和7年(1932)解散し晩成社50年の歴史は終わりました。

昭和16年(1941)開拓の功績をたたえ帯廣神社前に銅像がたてられました。昭和18年(1943)金属回収により軍部に接収れましたが昭和26年(1951)市民有志ににより再建されました。

昭和29年(1954)北海道神宮末社開拓神社に開拓先覚者祭神として合祀されました。
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by sinanoo | 2009-09-28 23:48 | 神社紀行
神社紀行 十勝 広尾町 十勝神社
十勝神社は300年以上の歴史がある、道内での有数の歴史がある神社です。

十勝の広尾町の国道に面し、一の鳥居をくぐると社殿に通ずる石畳の両側は芝生が敷きつめられ、多くの桜やつつじが植えられて遊具などもおかれ、本町公園として町民に開放されています。

1万坪の境内のヤマザクラが咲きほこり、見頃をむかえる5月上旬には花見を楽しむ町民や観光客でにぎわいをみせ、住民の心のよりどころとしての信仰とともに、コミニュティスペースの役割をはたしています。

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       所在地  広尾郡広尾町茂寄1-13

       創祀   寛文6年(1666)以前

       祭神   大綿積見神(オオワタツミノカミ)
                 神話に登場する 「海の神」
             保食神 (モチウケノカミ)
                 食物の神
              塩土老爺神 (シオツチノオジノカミ)
                 潮の流れを司る神 航海の神

       例祭   春  5月9日  秋  9月21日

       旧社格   県社
       社殿様式  流造
       社宝     近藤重蔵「東蝦夷新道記」彫字板(道の有形文化財)
       境内面積  1万坪

  由緒    
十勝神社の創紀は定かではありませんが、江戸時代トカチ場所の知行主として派遣されていた松前藩の家老蠣崎蔵人広林(カキザキクロウドヒロシゲ)奉納した白衣観音像(円空作 道指定文化財)の背面に寛文6年6月と記載されており、創祀はこれ以前と云う説が有力です。

創祀当時はトカチ(刀勝、戸賀知、戸勝)明大神とよばれ、十勝国警護の祈願社として創祀されたものです。

その後シマウス海岸に流れ着いた流木が龍神の形に似ていたため、ご神体として祀るようになり以後漁業が豊かになったことから崇敬が厚くなり、京都の仏師山崎金助に依頼して流木から丈4寸の像をつくりご神体としました。
この像が聖徳太子に似ていたと伝えられていますが制作年は不詳です。

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明治2年に明治政府が発令した神仏分離令により神仏習合であった十勝明大神は明治8年(1875)12月政府の通達により白衣観音像をはじめ仏像仏具をことごとく除け、政府の指示で大綿積見神(オオワタツミノカミ)を祭神として祀り「十勝神社」と改称しました。

白衣観音像は町内の曹洞宗 禅林寺に安置されています。

 移転 改築
 明治16年(1883) 社殿損壊のため政府に改築を出願
 明治22年(1889) 社殿完成
 大正7年12月(1918年) 現在地南側に移転

 昭和17年(1942) 社殿、社務所新築
 昭和20年(1945) 県社に昇格
 昭和21年(1946) 国家神道廃止とともに宗教法人となる
 昭和41年9月(1966) 十勝神社創紀300年祭

 合祀された祭神
 稲荷神社  祭神 保食神   天保6年(1835)創祀
 鹽竈神社  祭神 塩土老爺神  安政7年(1860)創祀
共に明治21年(1888)5月十勝神社に 合祀 

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社殿左側にそびえる桂の巨木
空に突き抜けるような杉

樹齢何年でしょうか

神職さんがお留守でお聞きできませんでした

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 境内にある石灯籠  
慶応2年(1866)越後糸魚川の北前船の船頭善次郎が奉納した石灯籠で広尾町の指定文化財です。
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 手水舎と手水鉢
右下の手水鉢は天保7年(1836)トカチ会所の支配人喜右衛門はじめ会所で働く番人一同が蝦夷地での平安無事を祈って奉納したものです。広尾町の指定文化財です。

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   二の鳥居            



 



  
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by sinanoo | 2009-08-06 18:49 | 神社紀行
神社紀行 北海道神宮



 札幌駅から西へ約4㌔、円山公園に面し杉、檜、オンコをはじめカシワ、ナラ等の針葉樹、広葉樹が生茂る緑につつまれた地に鎮座しています。

 大通をはさんで北側に表参道、南側に裏参道が真っすぐにつづいています。
訪れたのは3月20日、まだ雪が残り、ときおり雪がふきつける寒い日でした。

  地下鉄東西線円山公園駅から歩いて10分ぐらいのところです。

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           北海道神宮 (ほっかいどうじんぐう)

          祭神 大国魂神   (オオクニタマノカミ)
              大那牟遅神  (オオナムチノカミ)
                        大国主神の別名
              小名彦神    (スクナヒコノカミ)
              明治天皇   (昭和39年(1964)合祀
          社格     旧官幣大社
                  神社本庁包括 別表神社

      由緒
蝦夷地(エゾチ)開拓を進める明治政府の方針により明治2年(1869)明治天皇が詔(ミコトノリ「命令」)をだし、北海道開拓の守護神として蝦夷地の開拓三神を祀る北海道鎮座神祭が東京でおこなわれました。

同年開拓使長官 東久世道禮(ヒガシクゼミチトヨ)が御霊代(ミタマシロ)(神が宿った依代、鏡や剣等)を船で箱館に運び、さらに開拓判官 島義勇(シマヨシタケ)が御霊代を背負い札幌にはいり、明治3年(1870)北5条東1丁目の仮社殿に奉遷し翌4年9月14日現在地に社殿を建立遷座祭が行われ札幌神社と称しました。

建立と同時に国幣小社となり、明治5年(1872)官幣小社、明治32年(1899)官幣大社となり昭和39年 (1964)明治天皇を合祀し北海道神宮と改称しました。

明治政府にとって国策であった蝦夷地開拓の礎として創祀されたものであって、国策神社といえます。

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表参道にある二之鳥居です

大通りに一之鳥居、裏参道入口に三之鳥居、それに円山公園口鳥居と4つの鳥居があります。
 e0104596_19455964.jpg 参道

二之鳥居から神門まで続く参道の両側には明治8年(1875)島義勇の霊を慰めるために、桜が植えられエゾヤマザクラ、ソメイヨシノ、ヤエザクラなど境内に1400本が植えられており、札幌の桜の名所として市民に親しまれています。

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   神門

蝦夷地開拓当時、カラフト、千島に進出を進めていたロシアへの守りということで、神門、社殿は東北にむいて建立されています。

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   拝殿
大正2年(1913)に新しく建立された社殿は素木造りで拝殿、渡殿は土間床だったそうです。

昭和49年(1974)放火により焼失し昭和53年(1978)復興され、昭和63年に拝殿を改修しいまの形になりました。

拝殿の後ろに本殿がありますが屋根だけしかみることができませんでした。

           手水舎                          守り札授与所
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  境内末社
境内から円山公園鳥居に抜ける道に境内社が三社ならんでいます。

e0104596_2345654.jpg 開拓神社
昭和13年(1938)北海道開拓70周年の記念事業として開拓功労者を祀る開拓神社を建立、同15年(1940)末社となり37柱が祀られています。

祭礼は蝦夷地を北海道と改めた明治2年(1869)8月15日にちなみ、毎年8月15日におこなわれており、3年ごとに日本最大といわれる大神輿が市内中心部を渡御します。

   開拓神社の祭神
          記憶にある方々も多く祀られています。
            武田信広、松前義広、佐藤信景、村山伝兵衛  
          松田伝十郎、本多利明、伊能忠敬、高田屋嘉兵衛
            栖原角兵衛、最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵
          中川五郎次、鈴鹿甚右衛門、井上長秋、松前徳広
             田崎東、鍋島直正。松川辨之助、島義勇
          続豊治、下国安芸、清水谷公考、早川彌五左衛門
           松浦武四郎、吾妻謙、佐野孫右衛門、伊達邦直
            黒田清隆、小林重吉、永山武四郎、岡本監輔
            伊達邦成、東久世通禧、田村顕充、岩村通俊
                      依田勉三
          北海道神宮の本当の祭祀者はこれらの人々ではないでしょうか。

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   札幌鉱霊神社
北海道開拓の先駆者として鉱業に従事して殉職しおた方々を慰霊する神社です。

昭和12年(1937)に札幌鉱山監督局に建立され、昭和24年(1946)末社として北海道神宮境内に遷座しました。

e0104596_0171432.jpg   穂多木神社(ほたきじんじゃ)
明治33年(1900)北海道の拓殖事業に資金を提供するために創立された国策銀行、北海道拓殖銀行の本社屋上に建立され、銀行の守護神としてまた永年勤続し功労があった職員の霊を祀る神社で、昭和25年(1950)普通銀行に変わったとき末社として遷座しました。

国策で創立された銀行が国策のためにつぶされたというのが現実なのでしょうか。
この神社が存在するかぎり、「たくぎん」名が消えることはありません。

穂多木神社の「ほたき」は北海道拓殖銀行の頭文字を組み合わせたもののようです。

   参詣者休憩所
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西駐車場の傍の境内に参詣者休憩所があり六花亭が小さな売店を出してお茶と北海道神宮限定の「判官さま」という餅を温めてサービスしています。
寒かったのでホットひと息つけました。

   教育勅語
 e0104596_0575342.jpg おどろこました。
拝殿の前に北海道神宮社務所発行の「教育勅語」が置かれていました。

教育勅語を知っている年代は65歳以上の人達でしょう。
国家神道をおしつけ、侵略戦争に向かって行くための教育の柱になったものです。
いま、なぜここに置いてあるのかその意図はわかりませんが、北海道神宮は国策神社だったのですから、いまになっても本質は変ってはいないのでしょう。


  
 





                                   


















          
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by sinanoo | 2009-04-09 23:27 | 神社紀行
神社紀行を まとめてみました
■ 金刀比羅宮(コトヒラグウ)

■ 伊曽乃神社 (イソノジンジャ)

■ 大山祇神社(オオヤマズミジンジャ)

■ 高千穂神社

■ 天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)天安河原(あまのやすかわら)

■ 荒立神社(あらたてじんじゃ)

■ 高天原遥拝所、天真名井

■ くしふる神社

■ 2つの高千穂

   天孫降臨の里  高千穂 神話 

■ 伊勢神宮 式年遷宮 

    伊勢神宮 豊受大神宮 (外宮 げぐう)

    伊勢神宮 変遷、皇大神宮(内宮) (別宮)

    伊勢神宮 縁起と祭り
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by sinanoo | 2009-04-06 00:22 | 神社紀行
神社紀行 金刀比羅宮 (ことひらぐう)
                こんぴら 船々 追手に帆かけて
                    しゅら しゅ しゅ しゅ 
         まわれば四国は 讃州(さんしゅう) 那珂の郡(なかのごうり)
                 象頭山(ぞうずさん)金毘羅大権現
                      一度まわれば
と 唄われたる金刀比羅宮は香川県多度郡琴平町、象頭山の中腹に鎮座しています。
長くつづく参道の石段は有名で本宮まで785段、さらに奥社まで登ると1368段あり海の守り神として信仰されており、全国に1900社ある金毘羅神社(金刀比羅神社、琴平神社)の総本社でもあります。

金刀比羅宮は明治元年に発令された「神仏分離令」それによる「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の標的にされ、さらに金毘羅大権現が日本の神ではないとされ存続をはかるために、祭神を神話に登場する大物主に変えるという波乱の歴史をもった神社です。

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      金刀比羅宮(ことひらぐう)

  祭神  大物主命(オオモノヌシノミコト)
       (相殿) 崇徳天皇
  所在地 香川県多度郡琴平町892
  社格  旧国幣中社
       神社本庁包括 別表神社
 
  神仏分離令

神仏習合によって日本の神々の本来の姿は仏教の諸仏や諸菩薩であると考えられるようになりました。これを本地垂迹(ほんちすいじゃく)といい奈良時代にはじまったとされています。
そして神社の境内に神宮寺が建立され、また寺院にも土地の神を祭る鎮守社がおかれ寺社の施設も祭礼も一体化してゆきました。

ところが明治時代になると新政府は「神」と「仏」を分けることを命じる「神仏分離令」を公布しました。
それは明治政府が天皇の祖先神を神々の頂点においた「国家神道」という新しい宗教をつくり、国民に強制しようとしたからです。
そのため伝統的に一体であった「神仏」から「神」だけをとりだし、それらの神々を国家神道のストーリーに沿うように再編成しようとしたのです。

この国家神道というのは、江戸時代以前の日本の「信仰心」とは別物の、明治時代になってつくりだされた新宗教であると言ってもいいでしょう。

新しい国家神道を短期間に行きわたらせるため、政府は神仏分離の政策を強行に押し進めました。
その結果として各地で廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、多くの寺々が壊されて神社に模様がえさせられ、伝統行事が禁止させられたり、貴重な仏像や経典などの文化財が焼却にあいました。

 金毘羅大権現
金刀比羅宮は江戸末期まで松尾寺という真言宗の寺院でした。創建は不詳です。

金毘羅大権現の権現と云うのは仏や菩薩が日本の神の姿を借りて姿をあらわすことで、江戸時代までは各地の寺社に権現を祀り信仰していましたが、神仏分離令で「権現」の称号を使うことが禁止されました。

薬師如来を守護するために一諸に渡来した十二神将の中の一神が宮毘羅(くびら)大将でくびらがなまってコンピラになったとも考えられます。
この神はサンクリスト語でグランピーラといい、ガンジス川に住んでいたワニで仏教にとりいれられたと云われています。

松尾寺金光院の本尊も薬師瑠璃光如来ですからその本尊を守るために金毘羅大権現を祀ったものとおもわれます。

金毘羅大権現が祀られた時期は不明ですが近年元亀4年(1573)の年記を持つ棟札がみつかり、このころに金毘羅堂を建立し、本尊を守護させたものと推測されます。
金毘羅が祀られたのは近世初頭のころとなり、歴史としては比較的浅いようです。

戦国時代の末期までは参詣者も少なくさびれた寺院でしたが、当時の院主であり山伏でもあった金剛坊有盛と云う僧侶が寺を整備し金毘羅大権現の信仰をひろめました。
また秀吉の朝鮮出兵のころから海難よけの水神とされ、海上航海の安全を守る神、雨乞いの水神(農業かま)として農民の信仰を集めさらに象頭山の「お山信仰」とも結びつき、金毘羅大権現は本尊薬師如来をしのぐ流行神となりました。

江戸時代の中頃からは北前船の乗組員の間で信仰が広がり、そのため北前船航路の各地に信仰が広がりその信仰は瀬戸内海沿岸から日本海を経て蝦夷地にまで達しました。

           江戸時代に描かれた「象頭山」金毘羅全図」という絵図です。
  
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     絵図の右上に金毘羅大権現が祀られていた「本社」がみえます。
     中央左上にあろ大きな建物は「金堂」で松尾寺金光院の本尊薬師瑠璃光如来
        が祀られていました。

    亡命した仏さん
明治元年3月に発令された神仏分離令により4月に大権現は天笠より飛来、仏法を守護する神である。との上申書を提出したが日本古来の神ではないとされ、同年5月に大権現は大国主尊(大物主神)と同体であるとの嘆願書を提出し祭神の変更をしました。

同年6月松尾寺の堂宇を改廃し大権現の建物をすべて社殿に改めて琴平神社と改称しました。(同年7月金刀比羅宮と改称)

廃仏稀釈の広がりが松尾寺にもおよび金毘羅大権現の本地仏として祀られていた本尊十一面観音像は信仰の対象から外され、金毘羅大権現の神体である不動明王、毘沙門天の二像が打ち壊されそうになったとき、末寺の満福寺の住職宥明がこの像を隠し破壊から守りました。

さらに宥明は明治7年(1874)に暗夜に香川県から海を渡り岡山県の津田村に移し明治15年(1882)3月岡山藩主だった池田章正の助力で、はだか祭りで知られる西大寺住職永田光阿によって、牛玉所殿(ごうしょうでん)に守護神として迎えられました。

海を渡って亡命した仏さんです。

松尾寺金光院では多宝塔の廃止、鐘楼の取り壊し、一般の仏像、経典、仏具などは一部宝物として残したほかは、まとめて焼却しました。

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左右にお土産やが軒をつらねる参道の石段、年間300万人の参詣者がこの石段を登るといいます。
e0104596_202373.jpg大門
この門は大門と呼ばれ、左右に神像が置かれていますが、かっては、松尾寺金光院の仁王門でした。
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 大門を抜けると別世界です。
門をくぐると特別に境内での営業を許可されている、五人百姓が加美代飴を売っています。

  e0104596_20242768.jpg参道の境内社 祭神
 祓戸神社 セオリツヒメノミコト 外3神
 火雷社  ホノイカズチノカミ 外5神
 真須賀神社 タケハヤスサノウノミコト 外1神
 御年神社 オオトシカミ 外2神
 事知神社 ヤエコトシロヌシノカミ ほか2神
 厳島神社 イチキシマヒメノミコト
 大山衹神社 オオヤマツミノカミ

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旭 社
   祭神
       イザナギノカミ イザナミノカミ アマテラスオオカミなど記紀神話に登場する9神

見るからに「寺院風」の建物ですが現在では旭社とよばれています。
以前は松尾寺金光院の本尊、薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)が祀られていた金堂です。

境内でもっとも大きく、荘厳な堂舎ですから、金毘羅まいりに訪れた森の石松が、この金堂が金毘羅大権現を祀る本社であると勘違いして、ここで参拝しただけで引き返してしまったという伝承があります。
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 三穂津姫神社
祭神  ミホツヒメカミ
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  睦魂神社
 本宮の横にある神社です
  祭神 オオクニヌシノカミ
      オオクニタマノカミ
      スクナヒコノカミ

    金刀比羅宮の本宮e0104596_21395243.jpg

        本宮拝殿                             神殿     
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松尾寺金光院の本社で金毘羅大権現を祀っていました。現在は金刀比羅宮の本宮です。
   祭神 オオモノヌシノミコト
       相殿 スウトクテンノウ
本宮の横からさらに583の石段を上ると奥社があります。
金刀比羅宮をおとづれる参詣者の多くは本宮までで、ことにツアー客はここまでは上ってこないようで、ここまで来る人は少なく、静かな場所です。
  参道にある境内社
         常盤神社                            菅原神社         
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          白峰神社         
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     奥社 厳魂神社(いずたまじんじゃ
e0104596_22202534.jpg祭神  厳魂彦命(イズタマヒコノミコト)
僧侶であった有盛(ゆぜい)が 厳魂彦命という神名で祀られています。原始林に囲まれた社殿は山伏でもあった有盛を祀るにふさわしい場所とおもわれます。

金毘羅大権現の信仰拡大に功績のあった有盛は没後神格化されて金剛坊尊師とあがめられるようになっていました。そして有盛の山伏姿の霊像が作られ参詣者でにぎわう本社や観音堂がならぶそばに建てられた後堂(うしろどう)におさめられて、松尾寺金光院の僧侶たちに拝まれてきました。

ところが明治になって松尾寺が神社に模様がえすると、僧侶であった有盛の霊は神名を与えられ、この山深い奥社に遠ざけられてしまったというわけです。

  いまに法灯をつたえる松尾寺

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いわゆる表参道の石段はじまる付近から南に300メートルぐらいはいったところに寺院存続を願った、有暁などが辛うじて松尾寺の法灯をいまにつたえています。
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by sinanoo | 2009-03-31 15:20 | 神社紀行
神社紀行 伊曽乃神社 (イソノジンジャ)
愛媛県西条市伊予西条駅から南へ3キロほど、石鎚山系からの水を集めて流れる加茂川の辺にあり、一万六千五百坪の敷地に特異な植物群に覆われた境内に鎮座しています。
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 伊曽乃神社
  磯野宮とも書かれています
 
 祭神 伊曽乃神
     (天照大神)
     (武国疑別命)
 所在地 愛媛県西条市中野甲
 社格 旧国幣中社
     延喜式帳明神大社
     神社本庁包括別表神社
 鳥居の原型といわれる三の鳥居
  由緒
創建年代は不詳ですが、神社畧記によれば成務天皇7年(137)創祀とされています。

第12代景仁天皇の皇子武国疑別命(タケクニコリワケノミコト)が伊予の国土開発の任をおびてこの地に封ぜられたとき、伊勢神宮より天照大神を奉斎して祀り、後に命の子孫である伊予三村別(イヨミムラワケ)により天照大神と始祖武国疑別命をあわせ祀りこれが伊曽乃神社の創祀とされています。

称徳天皇天平神護元年(765)に神封10戸をあたえられ、同2年全国ではじめて神位(従4位下)を授けられ、以後神位が上がり永治元年(1141)極位である神位(正1位)を授けられました。
朝廷の信頼が厚く、新羅遠征や南海道の海賊平定など、国家的行事の奉幣祈願が数多く行われました。

近代社格制度の発足の際には、祭神不詳として官社の認可認可が得られず県社となりました。
昭和15年(1940)伊予乃神を祭神として国幣中社に昇格しました。
                                      「伊曽乃神社畧記」より抜粋
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    神門
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    拝殿
天正13年(1585)天正の戦乱で豊臣秀吉の四国征伐により社殿、社宝が兵火により焼失し、難をのがれて土佐国に遷座し慶長11年(1606)復座しました。
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    本殿
昭和15年(1940)国幣中社昇格の際に改築され従来の「入蜻蛉(トンボ)造り」を近代化した茅葺白桧木の神明造りとなり。昭和46年(1971)に銅板葺に葺替えました。

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  境内社
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    天満神社
 訪れた頃天満神社の周りには菅原道真、天神様の花、梅が咲きほこっていました。

 祭神 菅原道真公、大物主命、大山積神、       神田大明神、可々背男命

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    お先神社

 祭神 天孫降臨の際、天孫族の道案内をした     という 猿田彦命、

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 神門のまえに大きく枝をのばしたクスノキの古木があり、
 その横手に古茂理神社(木花之佐久夜毘賣)があります。


  伝承

地元の伝説によれば伊曽之の女神と石鎚山の男神が恋仲となり、男神は石鎚山で修行をしなければならないので結婚できないといい、「修行が終われば結婚するのでそれまで待ってほしいい、山頂から三っつの大石を投げるので真ん中の石が落ちたところに館を造って待つように」と言い残して山に登りました。

間もなく山から三っつの石が飛んできたて、真ん中の石が落ちたところに造られたのが伊曽乃神社だといいます。
伊曽乃神は女神だったのでしょう。

一の鳥居の横にその石が置かれているということでしたが、きがつきませんでした。

  例大祭 西条まつり
 伊曽乃神社の例大祭が行われる10月15日、16日の両日、江戸時代からつづく絢爛豪華な祭禮で知られるだんじりみこしの奉納がおこなわれます。
   
     
 
 
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by sinanoo | 2009-03-11 17:46 | 神社紀行
神社紀行 大山祇神社(オオヤマズミジンジャ)
瀬戸内海の中央に位置大小の島々に囲まれた愛媛県大三島にあり、西瀬戸内海自動車道通称しまなみ海道の大三島ICから西へ4キロほどゆくと、神体山鷲ヶ頭山の麓、天然記念物に指定されている日本最古の原始林社叢楠群におおわれた境内に鎮座しています。

e0104596_15415813.jpg 大山祇神社

所在地 愛媛県今治市宮浦
祭神 大山積神 (オオヤマツミノカミ)
社格 旧日本総鎮守、旧国幣大社
    旧伊予国一の宮
    延喜式明神大社
    神社本庁包括別表神社
 

              神門

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由緒
祭神大山積神は天照大神の兄神で山の神々の親神にあたり天孫瓊々杵尊の皇妃となられた木花開耶姫命の父神に当たる、日本民族の祖神として和多志大神と申し上げる。
海上安全の守護神である

地神海神兼備の大霊神として日本国土全体を守護し給う神であることから、古代日本総鎮守と尊敬され朝廷国民の崇敬は各時代を通じて篤く中世には四社詣で、五社詣での中心となり平安時代すでに市が立ち現在に続いている。
総分社10000余社に祀られ延喜式明神大社に列せられ伊予国一の宮に定められた、明治以降は国幣大社に列せられ四国唯一の大社として尊崇されている。  「境内案内板より」

e0104596_1653661.jpg拝殿 

e0104596_1704057.jpg社殿

 e0104596_1725962.jpg本殿

本殿は宝殿ともいわれ三間社流造桧皮葺、
元亨2年(1322)兵火にかかり大授4年(1378)再建されました。

  

 由来 伝承
この地に鎮座した由来については大山積神の子孫小千命(オチノミコト)がこの地に祀ったという説、伊豆国の三嶋大社から分霊を受けたという説、百済から渡来した神であるという説もありますが、摂津国(大阪市高槻)からこの地に遷宮されたというのが主説のようです。

いずれにしろ古い時代から存在した神社です。

日本各地に10000余社ある山祇神社、三島神社の総本山とされていますが、なかには静岡県の三嶋大社の分社といわれ、三嶋大社自体がの分社とする説や、また大山祇神社が三嶋大社の分社だという説もあります
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 本殿の左右に並ぶ摂社 上津社(上津姫 雷神)下津社(下津姫 高籠神)

e0104596_184446.jpg末社 十七神社
室町時代の建造物で県の重要文化財、祭神 (諸山積、大気、千鳥、倉柱、轟、阿奈波、比目木邑、宇津、御前、小山、早瀬、速津佐、日知、御子宮、日維、若稚、宮市)

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     末社 姫子邑神社
 祭神 木花開耶姫命とその御子神
     子育て安産の神として祀られています。

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 境内社
荒神社、地神社、稲荷神社、石神社、八重垣神社、御鉾神社、宇迦神社、馬神社

相霊社(江戸末期まで神宮寺というお寺でした、神仏習合の時代です、明治の神仏分離令で神社になったものです)
この横に八坂神社、五穀神社があります

年表
  推古2年 (594) 摂津国三島江から大三島瀬戸に移る
  天宝元年 (701) 現在地大三島宮浦に移る
  養老3年 (719) 16年かけ社殿を造営、遷座式行われる
  元亨2年(1322) 戦火にあい本殿、拝殿とも焼失
  天授4年 (1378) 本殿、拝殿再建
  応永34年 (1427) 本殿再建
  慶長7年 (1602) 拝殿建築 

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オオヤマツミの神話での記述

神産においてイザナギとイザナミとの間に生まれた。その後、野の神鹿屋野比売神(カヤノヒメ)との間に四対八神を産んでいる。

ヤマタノオロチ退治においてスサノオの妻となるクシナダヒメの父母、アシナヅチ、テナヅチ(足名椎命、手名椎命)はオオヤマツミの子と名乗っている。その後スサノウの系譜において、ナオヤマツミ神の娘であるカムホイチヒメとの間に大年神とウカノミタマをもうけていると記している。
またクシナダヒメとの間の子、ヤシマジヌミは、オオヤマツミの娘コノハナチルヒメ(木花知流姫)と結婚し、フハノモジクヌスヌを産んでいる。
このフハノモジクヌスヌの子孫が大国主である。

天孫降臨の後ニニギはオオヤマツミの娘、コナハナサクヤヒメと出逢い、オオヤマツミはコノハナサクヤヒメとその姉のイワナガヒメを差し出したが、ニニギが容姿の醜いイワナガヒメだけを送り返すと、オオヤマツミはそれを怒り「イワナガヒメを添えたのは、天孫が岩のように永遠でいられるようにと誓約を立てたからで、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命は短くなるだろう」と告げた。
wikipedia より


  

  

     
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by sinanoo | 2009-03-07 16:40 | 神社紀行
天孫降臨の里 (7) 高千穂神社
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       国史見在社  旧村社 神社本庁包括 別表神社

       祭神 高千穂皇神(たかちほすめかみ)
             日向3代の皇祖神とその配偶神
              天津彦火瓊々杵命(アマツヒコホノニニギ)
              木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)
              併せ6神
           十社大明神〔じっしゃだいみょうじん)
             三毛野命とその妻子神
              三毛野命(ミケヌノミコト)
               併せ10神
       例祭日 四月十六日

天孫降臨の地高千穂の中心に位置し、天慶年間に高千穂地方の領主だった高千穂太郎政治が高千穂18郷88社の総社として崇めて以来人々の崇敬をうけています。
日本神話に登場する日向三代の皇祖神を祭神とし、又神武天皇の兄神ミケヌノミコトとその妻子神「十社大明神〔じっしゃだいみょうじん)」として祀ったのが始まりとされています。明治6年三田井神社と改名、同28年高千穂神社と改め現在にいたっています。

鎌倉時代源頼朝の名代として秩父の畠山重忠が天下泰平を祈って代参した際に奉納した、鉄製狛犬が国の重文に指定されおり、安永7年(1778)に建立された本殿も重文に指定されています。
境内には重忠が手植えしたと伝えられる樹齢800年の杉は「秩父杉」と呼ばれています。


 祭神 ミケヌノミコト
ミケヌノミコトはニニギノミコトから天孫族4代目にあたる、神武天皇の三番目の兄にあたります。古事記、日本書紀によると、東征した日向軍を率いたのは神武の長兄イツセノミコトでしたが、生駒山のの麓で敗北しイツセノミコトは矢傷を負って死にます、いったん熊野に迂回しますがこの間に後継者争いがあったものとおもわれ、神武が後継者に選ばれたことで次兄のウナヒノミコト熊野の海に入ったと記されています。
三兄ミケヌノミコトについては「常世の国に行きたもう」と記され、常世の国とは死後の世界を意味し、ミケヌノミコトも次兄と同じく海に入ったと解釈できます。

高千穂神社にはミケヌノミコトは大和征服を終えてから故郷高千穂にかえったと、記紀とは違った伝承があります。しかしミケヌノミコトは、後継者あらそいにやぶれ、故郷に帰ったとみるのが自然だとおもいます。

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ニニギノミコトの晩年には天孫族は高千穂より南東の西都原(サイトバル)に拠点を移しており、二代目ヒコホホデノミコト、三代目のウガヤフキアエズノミコトのころには南九州全体を支配しており、天孫族発祥の地である高千穂は支配力が手薄になっており、国つ神サルタヒコ一族も東征についていったにちがいなく、その間にコウロギ一族のなかでもサルタヒコ路線に反発する荒ぶる神鬼八一族が、天孫族に反逆ののろしをあげこの地を占領していました。

ミケヌノミコトはこの荒ぶる神を倒してふたたび高千穂を支配下におきました。

  ミケヌノミコトが鬼八を倒している木像

   「鬼八伝説」
高千穂にはミケヌノミコトが鬼八を殺した話が各所にのこっています。
ミケヌノミコトに殺された鬼八は何度殺されても生き返るので、ミケヌノミコトは首、胴、手足をバラバラにしたのですが、鬼八は執念深く、殺されてもその怨念は強く霜を降らせて農作物に害を与えるなど、さまざまな祟りをしました。
高千穂の人々は鬼八のために首塚、胴塚、手足塚をつくりその霊をなぐさめることにしました。
伝承ではその霊をなぐさめるために、天正年間(1573~92)まで毎年16才になる少女を生贄として奉げたといいます、岩井川の城主甲斐宗摂があまりにもかわいそうだといって,代わりに4×4=16頭の猪を奉げることにしたといいます。
鬼八が猪の肉をたいへん好むということは、やはり鬼八は狩猟採集を主とした縄文人であったからでしょう。
鬼八伝説は阿蘇にも伝えられています。

これらの鬼八伝説はこの地方で長い間くりひろげられた天孫族と、土着勢力との抗争を物語るもので、政治権力によってつくられた記紀によって、天孫族の活躍の伝説になったと云えるのではないでしょうか、この伝説は抗争に敗れた、鬼八一族の悲哀を伝える伝説なのでしょう。















             
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by sinanoo | 2008-08-14 21:00 | 神社紀行
天孫降臨の里 高千穂(6) 天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)天安河原(あまのやすかわら)
 清流をはさんで東本宮と西本宮があります。
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      東本宮 社殿                      西本宮 拝殿
      祭神 東本宮 天照皇大御神 (アマテラスオオミカミ)
          西本宮 大日孁命 (オオヒルノミコト)アマテラスオオミカミの別名
           旧村社   現神社本庁包括 別表神社
 西本宮は本殿はなく、記紀に登場する天岩屋であると伝承されている、洞窟をご神体としています。

  由緒
創建の由緒は不明ですが社殿によればニニギノミコトを鎮祭したのが、起源であるとされています、地元の郷土史研究家によると高千穂町最古の高千穂神社の創建が、伊勢神宮と同じ垂仁天皇の時代とされていることから、この時代に建てられた、と推測しています。
現在ある社殿は弘仁年間(810~824)に大神惟基により再興され、文政4年(1821)改修がおこなわれ、明治30年に社殿の造営がおこなわれています。

   天岩戸伝説
  古事記の記述によると
「アマテラスの弟スサノウのあまりにも乱暴なふるまいに怒り、アマテラスが天岩戸に引きこもってしまった、高天原も葦原中国(アシハラナカツクニ=日本国の美称)も闇になり、様々な禍が起きた。
そこで八百万の神々が天安河原に集まり、どうすればよいか相談し、常世の長鳴鳥(鶏)集めて啼かせ、アマノウズメが岩戸の前に桶を伏せ踏みならし、胸をさらけだし、裳の紐を陰までおしさげ踊った、すると高天に鳴り響くように八百万の神々が一斉に笑った。
この笑声をきいたアマテラスは、何事だろうと天岩戸をすこしあけ外をみた、その時岩戸のかげに隠れていた力持ちの神タジカラオが、すかさず戸の隙間に手を入れ戸を引きあけ、アマテラスの手をとって外に引き出し、やっと高天原と葦原中国に光がもどった」

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タジカラオが引きあけた戸は信州戸隠まで飛んでいったという伝承があります。戸隠神社にはこの戸が祀られています。
例祭にはこの像のまえで一畳の畳をなげるイベントが行われています。
 

ニニギノミコトが天降ったこの地に高天原があるのはおかしな話ですが、ニニギにとっては、自分をこの地につかわした祖母、アマテラスを祀る場所をつくらないほうが方がおかしく、高天原の天岩戸に似た洞窟を探してアマテラスを祀ったのではないかとおもわれます。

あまの岩戸をぜひみたいとおもい、神社にお願いし神官からお払いを受け断崖のうえの遥拝所に立つと、そそりたった対岸の山頂から谷底まで二百メートルちかい谷の山肌に、ナタをたたきこんだような亀裂が走り、その中ほどの崩落部分が天岩戸だといい、薄くかかった霧のなかの風景は神話の世界そのものです。
撮影は禁止で、神官も立ち入ることできない聖域で西本宮のご神体になっています。
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11月3日 天岩戸神社の神楽殿で、無形文化財に指定されている、高千穂神楽33番が奉納されます。


   天安河原(あまのやすかわら)
西本宮から一旦国道に出て岩戸川の川岸を上流に10分ぐらい歩くと、川縁にアマテラスが天岩戸に隠れたさい八百万の神々が集まってアマテラスに天岩戸から出てきてもらおうと相談したと云う天安河原にでます。
 しかし梅原 猛氏は「高天原神話の舞台がすべてこの地にあると云うことになりますが、まあちょっと作り過ぎですね」と評しています。
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       岩戸川                      天安河原に通ずる散策路
岩戸川そってつくられた散策路を500メートル程歩き、小さな石橋を渡ると間口40、奥行30メートル程の洞窟、仰慕窟(ぎょうほういわや)がありその中に、主祭神 思兼神(おもいかねのかみ=八百万の神)を祀った天安河原神社がたっています。

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薄暗い洞窟や川原には賽の川原を思い浮かべるようような、ケルン状に積まれたおびだだしい石塔が並び、積まれた石1つ1つに人々の願いがこめられています。
八百万もの神がいるのですから、どんな願いも叶えてくれるでしょう。
以前はこの荘厳さにおされ、地元の人々はあまり近づかなかったようです。

 
                      

 
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by sinanoo | 2008-08-03 16:46 | 神社紀行
天孫降臨の里 高千穂 (5) 荒立神社(あらたてじんじゃ)
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人里のなかにたち、人々の生活の場にとけこんだような、素朴なたたずまいをみせる神社です。
        祭神  猿田彦命 (サルタヒコノミコト)
             天鈿女命 (アマノウズメノミコト)
             大年神、興呂木家の先祖を祭る神社 

        例祭日 7月29日  1月第2日曜日
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荒立神社の名前の由来はサルタヒコとアマノウズメの結婚が急だったため、くるふし峰の後方から切り出した荒木のままで家を建てたことから来ている」といわれています。
後世、命を祀る社も荒木で白水造りとしたことから別名「荒建宮」の社名になったと云われています。

サルタヒコは道開きの神として交通安全、五穀豊穣、厄除け、安産、長寿に信仰があつく庚申としても有名です。
アマノウズメはアマテラスオオミカミが天の岩戸に隠れたとき、笹の葉を手に乳房も陰もあらわに乱舞し岩戸を開けさせました。この舞が現在の神楽のもとと云われています。ご利益は芸事の上達、厄除け、子宝、長寿で芸能人が参拝に訪れることで、知られています。
                                (現地案内板より)

古事記によればニニギノミコトが天降りしようとした時に、その道をさえぎろうとした神ががおり、アマテラスオオミカミがお供の女神アマノウズメに向かって、その神のもとに行って、その神が誰であるかたずねるように命じました。
その神が国つ神サルタヒコで、ニニギノミコトの先導役として迎えにきたと答えました。サルタヒコはこのときすでに土着していた国つ神で、この縁によって天つ神アマノウズメとの結婚が成立したのです。

サルタヒコがいなければニニギノミコトは降臨できなかったはずで、サルタヒコはニニギノミコトについた縄文人です。

アマノウズメは猿女君(さるめきみ)とよばれ、猿女氏の先祖とされ古代から朝廷の祭祀に関わってきた氏族の1つです。
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サルタヒコは神楽では天狗の姿であらはされ、
妻となったアマノウズメはおかめの姿であらはされています。
自然人類学の説にしたがえば、鼻が高く眼がおおきくほりの深いサルタヒコは縄文人で、鼻が低く眼が小さく顔の凹凸がすくないアマノウズメは弥生人で、つまり天狗は縄文人、おかめは弥生人ということになります。

狩猟採集をなりわいとする土着の縄文人と稲作農業をもって渡来した弥生人のいわば国際結婚によって、日本民族がうまれたことを意味します。
この国際結婚があったからこそ、渡来の天孫族の長ニニギノミコトと土着のオオヤマツミの娘コノハナサクヤヒメの結婚が可能になったと考えられます。


荒立神社には鎌倉時代に作られたサルタヒコとアマニウズメの1対の木像が、仲良くならんでまつられています。まるで神話をめのあたりにするようです。

以前はこのほかに2対の木像が祀られていましたが、明治末期の神社合祀政策により荒立神社は高千穂神社に統合され2対の木像も高千穂神社にうつされ、復社後も高千穂神社に祀られています。
(公開されていないため、拝願することはできませんでした)がこの2対は日本神道の対立する人の心を説明する認識的なことになる 荒魂(あらみたま 神霊の荒々しい状態) 和魂(にぎみたま 神霊のなごんだおだやかな状態)をあらわした木像で、荒立神社の1対はその中間の状態の木像だそうです。


 
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by sinanoo | 2008-07-25 22:03 | 神社紀行