温泉めぐりと神話への旅 
by sinanoo
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カテゴリ:浦河の神社( 31 )
浦河の神社 (21) 絵笛神社
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道々静内浦河線を静内方向にすすみ、絵笛川を渡り新築された絵笛生活改善センターの右手の小高い丘の中腹に鎮座しています。
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          絵笛神社 (えぶえじんじゃ)
       創  祀   明治21年(1888)2月
       祭  神   北極星と北斗七星からなる妙見神
       御神体    鏡

       所在地   浦河町絵笛555番地
       社殿面積  12坪
       境内面積  300坪
       神殿様式  神明造
 
       例  祭     9月19~20日          
        由緒
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明治21年(1888)2月但馬国(兵庫県豊岡市)より開拓のため和船に乗って62日間の航海を経て浦河港に到着し、最初に移住した江谷菊三郎、大下善太郎、谷垣善左衛門、本間与五郎、杉山常三郎の5人が「心のよりどころとしての神社創立の必要性を論じて、江谷菊三郎が移住にあたり養父郡と美方郡香美町の境にある但馬妙見山の中腹にたつ妙見宮(現日光院)より3基の鏡を拝受したこともあり、あわせ合わせ南「但馬」
から北「北海道」に移住したので北極星を祭神として奉ることにして、明治21年(1888)2月江谷菊三郎所有の裏山に祠を建立して氏神として奉齋しました。

明治29年(1896)開拓が進むにつれ移住者が37戸を数え、祠の位置が部落の上に偏っている、との意見が出たために集落の中央の丘陵地に2kほど移動してあらたに神社を建立し、絵笛神社と称しました。

拝受した3基の鏡のうち2基が紛失し、現在は1基が奉られています。

昭和56年(1981)絵笛開基100年迎えるに当たり、老巧化した神社の新築が部落の総意て決まり、翌57年(1982)10月神社の位置を約50㍍下げた現在地に社殿、集会所を建立しました。
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昭和7年(1932)1の鳥居建立 (斉藤菊治氏奉納)
昭和15年(1940)2の鳥居建立 (松田長作氏奉納)
 (写真は2の鳥居)

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奉納された額

昭和40年後半頃絵笛神社の維持管理、運営などで諸問題が山積されて浦河神社への合祀が提案され、部落全員の合意を取り付けましたが、絵笛小学校の堺町小学校への併合が決まり、一部住民から「学校、神社がなくなったら住民が集い、親睦を深める場所がなくなり、心のきずなが失われてゆく」との強硬な意見がだされて神社の存続が決まりました。

明治21年(1888)頃熊による被害が多発し、これを防ぐために絵笛からライベツ越えの絵笛側中腹に「熊の山神社」を建立しましたが、開拓が進むと共に熊による被害が減少し廃社になりました。
この熊の山神社についての詳細はわかりませんが、神社の彫刻を施した鴨居が保存されている、といいます。(森脇和夫氏談)

  例祭
創祀当時は神としての北極星を10とし、北斗七星の7を加え毎月17日を17夜待講として住民が集い故郷をしのび、意思の疎通を図ったと言われ9月17日を宵宮、20日を本祭りとしていましたが、現在では9月19日を宵宮、彼岸の入りの20日を本祭りとしています。e0104596_2242147.jpg

宵宮は生活改善センターの前庭で行なわれ、子供相撲が奉納され住民は焼肉を食べながら賑やかに団欒のひと時を過します。
子供みこしが場内をまわって喝采をあびていました。

その後住民は1キロほど離れた神社に詣で祭りを司る自治会の人達が神社に朝までつめて、住民とともに神を奉齋します。

また大晦日から新年にかけても神社につめて参拝者をまちます。

 ふるさと但馬(豊岡市)との交流
豊岡市史「北海道開拓移住」の項には「明治20年頃但馬人らが大和船に便乗し60日の航海を続け上陸、直ちに絵笛に入地、詳細不明」と記されその歴史的事実は抜け落ちたままです。

望郷の念100年。昭和53年(1978)絵笛より川越清夫さんがはじめて豊岡市の本家、川越匠さんを訪れ、絵笛移住の関係者の本家探しが始まりました。
川越匠さんは縁故者名簿の整理に東奔西走されてその多くが判明しました。

平成元年(1989)「絵笛但馬会」が結成され同年10月川越清夫さんをはじめ一行9人が但馬を訪れそれぞれの本家を訪問し「先祖の地 但馬へ」2代3代4代と引き継がれた望郷の念が実現しました。

平成5年(1993)7月「但馬 絵笛会(川越匠会長)」一行13人が100年前但馬人が入植した絵笛の大地を答礼訪問ししました。
広報「とよおか」には「初めて目にした絵笛は艱難辛苦、但馬の先人が開拓し引き継いできた広大な大地と駿馬サラブレッドの駆ける牧場を営む堂々たる人達の風景でした」と記されています。
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 交流を伝える広報「とよおか」
  平成5年9月号
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 明るい地域社会づくりに貢献したとして
 兵庫県知事より「のじぎく賞」が贈られました。
  北海タイムスより転載

 但馬学研究会
2008年1月に開かれた但馬学研究会(豊岡市にある但馬を見つめなおし但馬に住む人達に生きがいと豊かさをもたらす学究活動をする会)で「北海道絵笛を拓いた但馬人」をテーマに例会が開かれました。

そのなかから興味深い話を抜粋しました。

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絵笛但馬会の本家訪問に同道した市職員中奥薫氏の講演

それまではせいぜい手紙の交換かまったく音信不通の関係だったが本家訪問が叶い、北海道移住のいわくが刻まれた墓石にむかって慟哭されるシーンに感動した。

本家が逼塞していないか、突然の訪問で迷惑がかからないかなど不安な気持ちで来られただろうが、おおくの皆さんは感動的な対面をした。

山本晃司氏 「移住者の但馬の縁故者の思い」

平成3年川越匠さんが来宅「絵笛に親戚があるか、向こうから9人分の縁故者名簿の調べの依頼があった」とのこと。そこで調査が始まったが断りもあった。
その結果今まで年賀はがきの交流が。初めてあさぎり荘で対面できた。

対面の過程では親や先祖からなにも聞いていない。こちらの縁故者では感動が薄く儀礼的な対面のケースもあった。

私(山本)の縁故者斉藤英さんが亡くなりいまは4代目になっている。駿馬の飼育に忙しくなり4代目とは全く交流がない。

昔の話を聞いたか聞かないかで語り継ぎができるか途絶えるかになる、関心があるかないかでも違う。今自分の子供に話すと「ああそう」ぐらいにそっけない。

絵笛を訪問した時印象に残ったことは豊岡では「江谷 えたに」なのに絵笛では「江谷 ごうや」と呼び方が違っていたことの理由は豊岡を不本意な形で出てきたような状態なので、豊岡に迷惑にならないように無関係を装うために違う名乗りをしているとのこと、移住のさまざまな背景がみえるようだ。

120年間世代交代が続き開拓移民史も風化してきている。今後絵笛を訪問する機会があっても迷惑になるだろうから多分行けないだろう。

名前の呼び方を変えていることについては、祭りの夜土肥(どひ)俊彦さんからこんなお話をお聞きしました。

土肥(どひ)さんの先祖は明治24年但馬から移住しましたが先祖をたぐると、伊豆から戦国時代に落ち武者として但馬の山奥に逃げ込んだといい、伊豆では「土肥 どい」と名乗っていましたが但馬では「土肥 どひ」と名乗りこれも伊豆の縁故者に迷惑がかかることを恐れてのことだろう。とのことで「江谷 ごうや」に通ずるものでしょう。

         参考引用文献  繒笛開村50年誌 絵笛開基百年記念誌 新浦河町史
         川越清夫氏  土肥俊彦氏  森垣和夫氏 からの聞き取り
         
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by sinanoo | 2010-02-15 23:40 | 浦河の神社
公有地の神社違憲判決に思う
先月最高裁で公有地を無償で使わせるのは政教分離を定めた憲法に反する、との判断が示され自治体にとまどいが広がっています。

政教分離の原則は戦前、国家神道を精神的な支柱として戦争への道を突き進み、神社参拝が強要され、信教の自由もうばわれました。
そんなにがい苦しみの体験のもとに政教分離の原則が憲法20条、89条にもりこまれました。

今回の判決は砂川市の空知太神社が市有地を無償で使っている問題で2審の札幌高裁では、違憲とし「違憲状態を解消するには「鳥居や祠などの撤去」が必要としたのに対し「撤去は地域住民の宗教活動を困難にして土地の取得や有償での提供もありうる」として現実的に取り組むよう札幌高裁に差し戻しました。

浦河町も含め北海道では開拓期に各地から入植した人々がふるさとからから分霊を受け、あるいは神札受けて心のよりどころとして建立した神社が多く今回の判決は「道内のそういった歴史」を理解していないのではないか、とおもいます。

戦前国家権力が推し進めた国家神道は、古来からの神道とは別のものであったということを認識しなければならないと思います。

ましてや最近の日本人の宗教観は結婚式はキリスト教、葬式は仏教、正月には神社参りと無節操と思うくらい多様化しています。
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浦河町では5つの神社が町有地に建っています。
私はこの数年、浦河に建つ23の神社を訪ね歩いて神社の開祀、開拓期からの変遷、祭りの実状などを調べてきました。
浦河の神社の多くは年1回または2回の例祭の日に旧郷社「浦河神社」から神官を招き大祓詞(おおはらえのことば)を奏上しますが、神社や生活館などに住民が集まり食べたり飲んだりして祭りを楽しむコミニュケーションの場となっており、宗教性はきわめて希薄です。
神社の運営や祭事は浦河神社は別として特定の氏子集団ではなく自治会が主体になって行なわれております。

浦河町の行政も対応に苦慮することでしょうが、差し戻し審の判断をふまえて地域の伝統的な習慣を憲法の大原則とどのように調和させるか、いまでも神社の保守管理にかかる多大な費用の捻出に苦慮している地域住民に、これ以上の経済的負担をかけないようにしてもらいたいものです。

今回の判決は日ごろ暮らしの中で不思議とは思わないことにも「憲法が定める大事な原則が宿らねばいけない」そんなことを教えられた判決でした。
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by sinanoo | 2010-02-13 17:38 | 浦河の神社
 アイヌの神々 遠山サキさん
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姉茶に住むアイヌのフチ遠山サキさんを訪ねてきました。

サキさんは野深で生まれ、姉茶に嫁ぎ子供の頃から激しい差別のなかで育ちながら、アイヌ伝統文化の伝承に力を尽くして、現在でも全国に出向いてアイヌ文化を紹介し、多くの功績を残しているアイヌ文化伝承の第一人者です。

訪ねたのはブログ「浦河の神社」で取り上げた姉茶神社に鎮座するアイヌの神を祀る祠「もう一つの姉茶神社」のお話を聞くことと、野深白龍神社で行なはれていたという「イオマンテ」の儀式のお話を聞き、アイヌの信仰をすこしでも理解できればと思ったからです。

アイヌの人々が祀るもう一つの姉茶神社
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この祠の創祀ははっきりしませんが、姉茶神社の現在地への移転が明治44年(1911)年ですからそれ以降とみられます。
この祠は東栄に住んでいた占い師友田某が祠を建て明星大善神(星の神)を祀ったのが始まりとされ、以後水の神竜神(ワッカウシカムイ)馬頭観音が祀られています。

アイヌの人々の信仰は縄文時代から日本古来の神、自然崇拝、精霊崇拝つまりすべてのものに霊魂や霊がやどっているという「アミニズム」です。

遠山サキさんは以前は多くのコタンの人々が先祖を守ってくれた神を敬い、参拝していたのにいまは参拝していた人々が高齢で多く死んでしまい神社の手入れもおろそかになり、コタンもなくなってしまったので参拝者も少なくなってしまったと嘆いていました。

春、秋の礼祭は神に奉げるイナウ造りから維持、管理までいまでは遠山サキさんと家族だけでおこなっているそうです。

自治会から寄付の申し出がありましたが「アイヌの神々を祀る神社だから、アイヌが守る」というアイヌの誇りから断ったそうです。

サキさんはいま子供達は「うるさい年寄りがいるからといって手伝ってくれるが、私が死んだら神社の面倒をみてくれるだろうか」と笑いながら話していましたが、サキさんの思いは子供さん達に伝わり、アイヌの守り神として敬まわれてゆくことでしょう。

野深 白龍神社のイオマンテ
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白龍神社は現在地に移る前は現共栄産業の裏手の大きな木の下にあり、祭りには野深、姉茶はもとより浜からも多くのアイヌの人々が集まり、にぎやかな祭りだったそうです。

アイヌの伝統儀式熊送り「イオマンテ」はサキさんが12・3才頃(60数年前)まで行なわれていたようです。

冬ごもりしている間に生まれた小熊を探して親熊は殺しますが、小熊は家に連れ帰って子供と同じように育てて時には母乳も与えるそうです。
サキさんは「小熊が木に登ったり、じゃれついたり、人のあとをついて歩いたりしてそれは可愛いものでしたよ」

1~2年育てたあとイオマンテの儀式で祭りの輪のなかで矢を放ち、2本の丸太ね首を挟み息の根を止め、人々はカムイへの感謝の歌や踊りを踊り、祭りのためにアイヌの家々を回って集めた米で作ったシト(団子)トノト(濁り酒)ヤナギの木を削いで作ったイナウを大量に奉げユーカラを語ります。

サキさんは「家族同様に育てた小熊が殺されるの見る事は忍びなく、涙が出て顔をそむけたものです」と語っていました。e0104596_0482243.jpg

60数年まえに行なわれた「イオマンテ」
2頭の小熊も写っています
        遠山サキさん所蔵


殺された熊は皮をはぎ肉をとり熊の形を整えるそうでサキさんは「狩猟民族だから出きるんですよ」といっていました。

解体した肉は大きな鍋に入れて団子と共に煮込んで人々にふるまわれ、アイヌの人々はもとよりシャモ(和人)の人達も集まって来たとサキさんは語っていました。

イオマンテの儀式は3日間にわたって行なわれ「残酷だから」と道の条例でしばらくの間禁止されていましたが2007年に撤回され再び行なわれるようになりましたが、1日と短縮され、本来の祭りの姿は失われているようです。

イオマンテを信仰面からみると熊の姿を借りて人間の世界にやって来たカムイを1~2年間大切にもてなして見送りの宴を行って、神々の世界にお帰りいただくものと考えられます。

熊の肉や毛皮はもてなしのお礼としてカムイが置いていった置き土産であり、みなでありがたく頂くというわけで、人間の世界で大事にされた熊のカムイは天界に帰った後も再び肉と毛皮を携えて人間の世界を訪れるといいます。

                     遠山サキさんからの聞き取り 
参考引用文献   Wikipedia
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by sinanoo | 2010-02-10 23:42 | 浦河の神社
浦河の神社 (20) 向別稲荷神社
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国道236号線堺町交番を右に折れ、道々上向別浦河停車場にはいり向別川に架かる向別中央橋を渡って6㌔、緑茂る丘の麓に鎮座しています。

         
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  正面からは見ることができませんが、拝殿の奥に神殿があります。 


          向別神社 (むこうべつじんじゃ)  

          創  祀   大正8年(1949)5月24日
          祭  神   倉稲魂神 (ウカノミタマノカミ) 稲荷大明神

          所在地    浦河町上向別157番地
          社  殿   18坪
          敷地面積  3600坪
          神殿様式  流造

          例  祭   秋  9月第2日曜日

       由緒
明治34年頃秋田県角館から浦河に移住した堺清兵衛の牧場の小高い丘に故郷より分神した稲荷神を祀った祠があったといわれています。

堺牧場の農耕地への転換の推進役だった小山豊松が堺家より御神体を授かり、小作人10余人とともに室田宅の裏山に祠を建てて祀りました。
その後堺家2代目堺忠助より久保田憲一宅の裏山1町4反を神社用地として無償提供を受け、入植した小作人と協議のうえ大正8年(1919)5月神社を新築移転し上向別神社と称しました。

昭和8年(1933)9月東京に転居した堺家より御神体の返還要請があり、氏子総代が御神体に添えてあった奉書をみたところ堺家に伝わる御神体であることが分かり返還することになりました。
e0104596_2057361.jpg氏子総会で協議のすえ、伏見稲荷大社から稲荷大明神を勧請し祭神として祀りました。

昭和37年4月老巧化した神殿を新築し拝殿も建立しました。

下向別地区には明治42年(1909)頃に建立されタネンベツと下向別を氏子にした下向別神社があり上向別神社との併合の協議が重ねられましたがまとまらず、下向別神社は浦河神社に合祀されました。
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昭和37年に境内に奉納された石柱
  天照大神
  豊受大神
  小名彦神
  倉稲魂神 
 が刻まれています。


堺家4代目の堺兼吉氏著書「堺家4代の回想録」のなかで向別神社と堺家のかかわりを次のように記しています。

向別神社のことで昭和に至るまでだれもきずかなかったことが、浜荻伏の友田さんと云う人によって判明した不思議なことがある。

堺家の土地は現在の堺町が牧場さらに向別は畑、水田等で小作してもらっていたので秋田からお稲荷さんを持ってきたので牧場にお祭りしていたのが時代とともにだれもきずかないまま向別の神社になっていたのである。

鈴木クニ姉と鈴木サトさんが健康のことなどでお稲荷様関係の友田さんに拝んでいただいたときクニ姉に友田さんが云うには「貴女が生まれた時にお稲荷さんが向別に移され神社になっているが、帰りたがっている」
とのお話で、さらに龍神様も不明のままで帰りたがって蛇が時々家に行くのだがその度老人に殺されてしまっている」と不思議な話が持ち出されたたのである。

その時クニ姉は35歳で35年前に貴女が生まれた年にと言う、あまりにも不思議な話であったので、姉もよく調べたら確かに牧場で祭っていたことが判明し、人を介して向別の方にお話をしたら、中に知った人が居られて確かに堺家のお稲荷様だと言うことで戻して頂き堺家でお祭りしていたが昭和20年の東京大空襲で焼失した。

龍神様は明治42年火事で表に運び出されたことはクニ姉も知っていたのだが年が過ぎ、忘れていたので言われて驚き、確かに中庭に時々蛇が来たのだが、当時15畳間の廊下にカナリアを飼っていて、蛇が雛をとりに来るので坊田要三さんがみつけて2匹程殺したことがあったことはわたしも知っていた。
龍神様は漁場の関係でお祭りしていたので後日替わりの御神体を入手し、お祭りしていたが同様東京で焼失現在にいたっている。


 向別開拓のこと
向別はアイヌ語でコムチペットといい、十勝山系を源流とする向別川は部落を南北に流れています。
向別川の川筋には楢、柏、タモ木それにコクワ、ぶどうなどが繁茂し川をまたいでアイヌの人々住み、いくつかのコタンをつくり春から夏ににかけてはイカランニ(井寒台)に通い昆布などの作業に従事し秋冬には山野で狩猟したり向別川に遡上すす鮭をとっていたといいます。

安政年間に向別に足を踏み入れた松浦武四郎の書ニヨルトコタンでは農耕が行われて畑も多かったと記されており、狩猟から農耕えの一歩をふみだしていたのかも知れません。

明治4年(1871)秋田角館から浦河に移住した堺清兵衛が農場を開設し明治17年(1884)頃向別ピラトリカで稲作を試みたが失敗し、稗田に変わったといいこれが向別地区における営農の始めではないか、といわれています。

明治18年(1885)頃堺清兵衛は北海道庁から向別の未開拓地30余町歩の払い下げをうけ、ドサンコを飼育する牧場と開拓に力をいれました。

明治20年(1887)青森県よい柳沢春松が入植、これが向別地区における最初の自移民であるといわれています。

明治25年(1892)堺家2代目の堺忠助は牧場を農耕地に転換する計画をたて、堺家の漁場にいた愛知県出身の小山豊松にこの任にあたらせ、ヤマコシナイ付近(向別目名太川流域)の牧場を開拓しました。

明治25年以降堺農場が拡大するとともに小作人として兵庫、福井、富山などからの移住者がふえ明治30年末には戸数103戸(内アイヌ32戸)人口445人(内アイヌ143人)となり平地のほとんどが農耕地となり、大豆、小豆、を主体として大根なども生産しました。

明治35年(1902)北海道旧土人保護法が公布されアイヌの同化教育を進めるため、庁立向別尋常小学校(通称土人学校)が開校しましたが明治42年(19099町立に移管され土人学校ではなくなりました。
向別小学校は昭和50年(1975)堺町小学校に統合され閉校になりました。

明治40年(1997)ボクサツナイ41年頃にはラムシで水田の開発が始まり44年にはタネベツにおいても稲作がおこなわれました。

向別地区の開拓は堺農場の小作人として入植した人々によって進められたといっていいでしょう。

大正8年(1960)堺農場の貸付地が従来の小作人に売り渡され自作農が増加しました。

昭和25年(1950)目名太の日高軽種馬牧場用地を道が買収し、開拓に着手、13名が入植しましたが耕地面積がせまく、36年には3戸が離農し、以後も後継者不在や病などで離農があいつぎ、当初入植者2戸、跡地購入者5戸により農業から軽種馬生産へと移行してきました。


  参考引用文献   開村70周年記念誌 「向別」 開基百周年記念誌 「拓翔」
              浦河新町史   堺家4代の回顧録  コタンを訪ねて



             
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by sinanoo | 2009-11-11 23:20 | 浦河の神社
浦河の神社 (19) 上野深神社
道々348号線 野深神社を過ぎ左右に広がる牧場をぬけて4キロ、上野深生活館の横手に鎮座しています。

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         上野深神社(かみのぶかじんじゃ)
         
           創  祀    大正9年(1920)10月16日
           祭  神    天照大神(アマテラスオオミカミ)

           所在地    浦河町字野深246番地
           社  殿    5坪
           社殿様式   流造

           例  祭    春 4月12日   秋 9月12日
       由緒
上野深地区は従来野深神社氏子でしたが上野深高台、中段の開拓が進むにつれて戸数人口が増加し大正8年(1919)上野深地区に第二野深小学校の開校もあり、住民より神社創建の気運が高まり、野深神社より祭神天照大神の分神をうけて大正9年現在地に2坪の社殿を建立しました。

昭和44年(1969)8月20日社殿が老朽化したために住民より寄付を募り5坪の社殿を建立しました。

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例祭当日参拝してきました。

鳥居をくぐって100㍍の参道、緑の木々につつまれた上野深生活館の広い敷地の横手に静寂なたたずまいをみせていました。
社殿には自治会婦人部の方々が詰めており、参拝者にお神酒をふるまっていました。
生活館の前庭には多くの住民が集いおもいおもいの飲み物を片手に語り合っていました。

上野深神社は浦河では西幌別駅前神社につぐ新しい神社ですが、開拓の歴史のなかで創祀された神社で自治会の方々のお話を聞いていると神社にたいする敬虔な思いがつたわってきます。

祭りには子供みこしがねりあるき、参道には露店も出店していました。

     引用文献    浦河新町史
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by sinanoo | 2009-10-26 23:14 | 浦河の神社
浦河の神社 (18) 野深神社
道々348号線に面し、下野深地域の山側にある野深生活館の横手に鎮座しています。

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           野深神社 (のぶかじんじゃ) 
       創  祀  明治31年(1898)9月12日
       祭  神  天照大神 (アマテラスオオミカミ)
              天思兼命 (アマノオモイカネノミコト)

       所在地   浦河町字野深186番地
       社  殿   3坪
       敷地面積  650坪
       社殿様式  流造
       例  祭   春  4月12日    秋  9月12日

    祭神  天思兼命( アマノオモイカネノミコト)
神話に登場する神で天照大神が岩屋に隠れたとき、八百万の神々が天安河原に集まり会議」を開いた時にこの神々の議長として深くかかわり、天照大神を岩屋から引き戻したとして智謀の神いわれています。

      由緒
明治31年(1891)9月12日 当時野深106番地山下源七の宅地の祠に屋敷神として祀られていた天照大神を部落の総意で現在地に1坪の神社を建立して祀り野深神社と称しました。

創建当時わ姉茶地区、上野深地区も氏子として奉祀していましたが、明示32年(1899)に姉茶神社、大正9年(1920)に上野深神社が建立されて神社区域から離れたため、現在では下野深地区の神社となっています。

明治35(1902)年11月4日 社殿1坪半を増築し天思兼命を増祀しました。

昭和33年(1958)9月27日 日高地方を襲った台風22号により社殿が倒壊し翌34年(1959)9月11日地域住民に寄付を募り、3坪の社殿を建立しました。

昭和55年(1980)篤志家の寄付を受けて社殿内部の塗装、屋根の葺き替えを行い、鉄製の鳥居を建立しました。

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     棟札
明治35年(1902)に社殿を増築したさいに書かれた棟札が残されています。

表には増祀した天思兼命、手置帆負命(タオキホイノミコト)、彦狭智命(ヒコサジノミコト)、世話人として13名の名が記されています。

裏面には明治35年11月4日上棟式執行。
棟梁 長谷川太一郎、 大工 安達浅次郎
木挽 上山藤蔵  高岸三吉と記されています。


  神社境内に白龍神社が鎮座しています。

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    白龍神社の由来
松浦武四郎の記録によると野深には13戸のイカペッコタンとヌプカコタンの二つの大きなコタンがあったとしるされています。
      口碑伝承

「この野深コタンの真向かいに高いポロイワがある。この山は神様の山、カムイヌプリとよんでいた。この山の中腹に沼があり、昔コタンの人達は木を切ったり仕事をしていた。

 あるときコタンの酋長の娘がこの沼に水を汲みに降りていったがなかなか帰ってこないので見に行くと息絶えて倒れていた。
タンカをつくっりそれに乗せてコタンに連れ帰ったが、さっぱりよくならなかった。酋長が無理にそのわけを聞くと、息絶え絶えの中から次のような恐ろしいことを語りだした。

「水を飲もうと沼に降りてゆくと、沼のなかにに流木のような大きなものがかすかに動いており。よく見るとまっかな鶏のとさかのようなものを頭に付けた怪物がぐっと首をもたげて私を見つめていたのです。その瞬間気絶したのです・・・・・」
言い終わると息をひきとった。
その瞬間にわかに暗くなり物凄い雷雨となった。それもほんの少しのことで、また空は明るくなりもとの静かなコタンとなった。

 コタンの古老達はこの不思議な沼の怪物こそ白い龍神様ではないかということになり、コタンの守り神として沼の淵に祠をたてて祀った。」



祠はいつの日か沼の淵から麓に下ろされアイヌの守り神として祀られてきました。

その後野深の現共栄産業の裏手にある大樹の下に祠が移され、例祭には多く名アイヌの人々が集まり祭りの儀式が行はれていました。
生け捕りにしたクマの霊魂を神の国に送り返す、アイヌ民族の伝統儀式「イオマンテ」もとり行われていたと云われています。

祭りを司っていたアイヌの人々の多くが高齢化して祠の存続がきびしくなり野深神社の敷地に神社を建立し白龍神社として奉祭しました。

例祭は野深神社と同日に行い、維持、運営は自治会が行っています。

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例祭
祭り当日は神社横にある生活館の前庭に地域住民があつまり、模擬店が出店して祭りをたのしんでいます。
こども神輿も部落をねりあるき、祭りの賑わいに花をそえています。

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参照引用文献       浦河町史    コタンを訪ねて(山本融定)









                   
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by sinanoo | 2009-10-23 20:41 | 浦河の神社
浦河の神社 (17) 姉茶神社
元浦川の右岸に広がる姉茶地区、道々静内浦河線から山側に折れて姉茶東栄1号線にはいり姉茶川を渡り緑の樹木に囲まれた小高い丘の中腹に鎮座しています。

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          姉茶神社 (アネチャジンジャ)

         創  祀   明治32年(1899) 4月
         祭  神   天照大神

         所在地    浦河町字姉茶538番地
         社  殿    3坪
         敷地面積   300坪
         社殿様式   流造
         例  祭    春 4月13日  秋 9月第2土曜日

           由緒  
明治32年(1899)4月 当時野深神社の氏子でしたが、開拓の進展とともに移住者が増えて人口が430人をこえ、住民の心のよりどころとして、また明治31年(1898)浦河支庁管内に徴兵令が施行され兵役に赴く兵士の歓送、戦勝祈願のための神社の必要性ともあいまって野深神社から分神を受けて、富岡牧場の東側の村有地に建立されました。

明治44年(1911)4月 現在地に300坪の敷地を選定し、住民の手で社殿を担ぎあげて移転しました。

大正15年(1926)9月 拝殿を新築し住民の集会など使われていましたが昭和13年(1938)10月に青年会館建てられ、拝殿が老巧化したこともあって取り壊されました。

昭和45年(1970)9月 社殿が老巧化したため住民から寄付を募り3坪の社殿を新築しました。e0104596_12392933.jpg


昭和52年(1977)鉄製の鳥居を住民、篤志家の寄付で建立しました。

例祭当日は住民が神社下にある姉茶生活館に集まり祭りを楽しんでいます。
神社の維持、運営は自治会が行っています。

       アイヌの神々を祀る もう一つの姉茶神社
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姉茶神社の境内の右奥に明星大善神(星の神、夜明けの神)を祀る神社があります。
合わせて水の神竜神(ワッカウシカムイ)、姉茶に住む仏師堀敏一さんの彫った馬頭観音も祀られています。
自然の神を崇めるアイヌのコスモロジー(世界観)をみることができます。

明治30年頃には姉茶に多くのコタンがあり39戸180人のアイヌの人々が暮らしていました。

姉茶に住むアイヌのフチ遠山サキさんは「姉茶神社は私の聖地です。昔は多くのコタンの人々が先祖を守ってくれた神を敬い参拝していたのに、いまは参拝する人が高齢のため多く死んでしまい、神社の手入れがおろそかになっている」と嘆いています。

例祭は姉茶神社の例祭に合わせてアイヌの人々によって行われています。

例祭当日明星大善神ののぼりが奉納されていました。自治会役員の方が「何年かぶりにみるのぼりだな」
といっていました。神社の賑わいがもどるのでしょうか。

     姉茶のこと
姉茶はアイヌの聖地として崇められた「ポロシリ」(幌尻岳)。その頂きに連なる日高山脈の水系にある元浦川の右岸に位置しています。

姉茶の奥地には沢が多くあり昔アイヌの人々は魚を常食としていたために川を渡る舟を造るため良質の木材がある沢の奥にコタンを形成していました。

この地を訪れた松浦武四郎の記した日誌によれば「寛文年間に金を掘り起こし跡多し、また此山盛んなる比には金丁共も余程この辺に移住し、畑を開きし由、今その畑跡多し」と記されておりこの地が天恵豊かな地であったものと思われます。

明治13年(1880)青森県から移民が開拓に入り、明治15年(1822)に赤心社の開拓団が元浦河に移住、姉茶地区に10戸がはいりました。
明治19年(1886)赤心社牧場が野深、姉茶にまたがる400万余坪の広大な規模で開設され、姉茶には牛牧場、野深には馬牧場がおかれました。

明治24年(1891)には越前大野より25戸の移住があり、以後大野からの移住者が増えてゆきました。

明治37年(1904)4月 旧北海道土人保護法が制定され、アイヌ民族の農耕民化と教育による同化のため、「特殊アイヌ学校」(通称 旧土人学校)姉茶尋常小学校が設立され昭和12年(1978)6月30日同法の改正により野深小学校に合併されました。

昭和13年(1938)1月 字名改称で姉茶は瑞穂(元浦川の左岸旧西姉茶)姉茶、富里にわかれました。

昭和22年(1947)農地改革が行われ大地主だった赤心社の土地が小作人に売り渡され、自作農とし農耕の道を歩みはじめました。

       参考引用文献    浦河町史
                    遠山サキさんの項 Hatena Key Word 「GIJI-NOTO」












    

    
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by sinanoo | 2009-10-10 23:39 | 浦河の神社
浦河の神社(16) 浜荻伏金刀比羅神社
  浜荻伏のほぼ中央、国道235号線に面し鎮座しています。
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     浜荻伏金刀比羅神社 (ハマオギフシコトヒラジンジャ)

        創祀     明治26年(1893)頃
        祭神     金毘羅大権現

        所在地    浦河町浜荻伏181番地
        境内面積   600坪
        社殿面積    15坪
        神殿様式    流造

        例祭     春 4月9~10日
                秋 9月9~10日
        氏子     160世帯

       由緒
明治26年頃浜荻伏に居住していた小出谷政一が漁業を始めるににあたり、讃岐の金刀比羅宮に詣でて御神鏡を拝受し祠を建て祀ったのが始まりとされています。

明治32年(1899)祠を改築、大正5年(1916年)頃老巧化したため、住民とはからい社殿を新築し海上守護の神である金毘羅大権現に海上安全、豊漁を祈願し部落の氏神となりました。

昭和42年(1967)9月氏子の寄付と漁業関係会社、篤志家の寄付により現在の社殿を建立しました。
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神殿には金刀比羅宮はら拝受されたとされる御神鏡がおかれています。
神殿におかれた神札に五亭龍神、岡像妙神、天御中生神、の名が書かれていますが、いつのものかなぜここに祀られているかは不詳です。
この地にあった祠を合祀したのではないか、と推測されます。

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祭礼の日に鳥居に御神燈としめ縄を模した魚網が奉納されています。
この魚網は岩手県から移住した漁業者が50年前にふるさとの神社で行われていた風習に習い、自ら造り奉納したもので、春、秋の例祭には鳥居にかけられています。

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秋の例祭には神輿、こども神輿が部落をねりあるき祭りを盛り上げています。
社殿前ではこども相撲が奉納されています。


神社の維持、管理は漁業者で組織された氏子総代のもとで行われていましたが、漁業以外で生計をたてる居住者がふえ、現在は自治会が行い、例祭も自治会が行っています。

          引用参考資料    浦河町史
                       自治会長からの聞き取り
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by sinanoo | 2009-10-04 14:21 | 浦河の神社
浦河の神社 (15) 瑞穂神社
国道235号線、荻伏市街地より野深に通づる道々248号線 野深荻伏停車場線にはいり、牧場の広がる瑞穂、小高い山の麓に鎮座しています。

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           瑞穂稲荷神社 (みずほいなりじんじゃ)

         創祀    明治14年(1881)6月
         祭神    稲荷大明神
         
         所在地   浦河町字瑞穂166番地
         社殿様式  流造
         社殿面積  3坪 
          例祭     9月12日
       由緒  
明治14年(1881) この地に入植していた開拓者が語らい、心のよりどころとして又農耕えの願いを込めて食物、農業の神である稲荷大明神を北俣荘助の所有地の先の山の上に祠を建て奉斎しました。

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明治27年(1894) 姉茶工藤美松によって奉納された額

明治27年(1894)3月15日改築され「稲荷神社」と呼ばれていました。
当時の荻伏村の氏神として住民に広く敬われ、例祭には多くの人々が集まりにぎやかな祭りが行われていました。
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大正4年(1915)9月20日 社殿が老巧化しため社殿を新築しました。
昭和13年(1938)4月 姉茶が瑞穂、姉茶、富里に分区されたため「瑞穂稲荷神社」と改称しました。

昭和31年(1956)4月12日 老巧化した社殿を改築しました。
昭和53年(1978)10月13日 社殿を200㍍下の瑞穂生活改善センター横に移転新築し鳥居を建立しました。

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   瑞穂のはじまり  
瑞穂の開拓の先覚者と云われる平井熊五郎は慶応年間に越前より浦河に移住し明治9年(1876)元浦川に転居、明治12年(1879)西姉茶(現在の瑞穂)にうつり赤松宇衛門とともに奥地の開拓にあたりました。

明治13年(1880)岩手県人北俣荘助は井寒台において漁業に従事していましたが西姉茶に移り住み、平井熊五郎と共に開拓に力をそそぎました。
稲作を試み二年後の明治15年(1882)には反当り1石の収穫をあげ、荻伏村での稲作に先鞭をつけたといえます。
  
明治24年(1891) 越前大野より多数の移住者があり開拓は進み、元浦川の度重なる氾濫による苦難にあいながらも肥沃の地えと変えて行きました。

      参考引用      浦河町史
                  瑞穂自治会長高岸氏から聞き取り     

     
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by sinanoo | 2009-10-01 21:45 | 浦河の神社
浦河の神社 秋の例祭
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浦河の神社の秋の例祭(秋祭り)の多くは9月に行われています。
例祭は春、秋の2回行われていますが、秋の例祭が秋祭りとして盛大に行われてます。
     春の例祭は (神に豊作を祈る)
     秋の例祭は (神に収穫わ感謝する)

浦河の神社の多くは移住した先人の心のよりどころとして、又開拓の苦難の歴史がつづられた神社です。
例祭は信仰とともに先人に想いをはせ、部落のコミニュテーの場として大きな意味をもっていると思います。

          白泉神社     9月4日~5日
          荻伏神社     9月5日~6日
          上東栄神社      〃

          月寒神社     9月9日~10日
          浜荻伏金毘羅神社  〃

          富里神社     9月10日
    
          姉茶神社     9月12日
          瑞穂神社       〃
          野深神社       〃
          上野深神社      〃
 
          井寒台神社    9月12日~13日
          東栄神社         〃
          西幌別駅前神社     〃

          向別稲荷神社   9月13日

          絵笛神社      9月19日~20日

          上杵臼神社     9月20日~21日
          東幌別八幡神社      〃

          西舎神社      9月21日~22日 

          杵臼神社      9月22日~23日
          西幌別神社         〃

          浦河神社      9月26日~27日
          ちのみ稲荷神社      〃  


          

      
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by sinanoo | 2009-09-01 22:59 | 浦河の神社